上野の西郷さん
明治維新150年にあたるメモリアルイヤーの今年、平成30年(2018年)の大河ドラマは『西郷どん』でしたが、その第1話のオープニングに登場した上野恩賜公園の西郷隆盛像についての起稿です。
今年の春、たまたま東京に行く機会を得たので、ついでに足を運んできました。

周知のとおり、西郷隆盛がこの世を去ったのは明治10年(1877年)9月24日、西南戦争における反乱軍としての戦死でした。
そのため西郷は「逆賊」の汚名を着せられることになりますが、維新最大の功労者である西郷の名声は死後も落ちることはなく、名誉回復を求める声が高まるなか、明治22年(1889年)、明治天皇の意向や黒田清隆らの尽力もあり、大日本帝国憲法が公布される大赦によって「逆賊」の名を赦され、正三位の位が追贈されます。
これを受けて、西郷の旧友である吉井友美が西郷像の建立を計画。
御下賜金(天皇から賜ったお金)や有志が集めた寄付金を資金として、明治26年(1893)に起工、明治30年(1897年)に竣工したのが、この「上野の西郷さん」です。

なぜ上野に西郷像が建てられたかというと、当初は皇居内に建てる計画だったそうですが、一時は朝敵となったことを理由に猛反対する声が上がり、やむなく、かつて西郷が指揮官として功を上げた上野戦争の舞台であり、皇室の御用地である上野に建てられることになったそうです。

また、その姿についてですが、当初は騎馬像として設計されたものの資金が足りず、次に、陸軍大将の正装である軍服姿の立像で計画され、雛形まで出来あがっていたそうですが、これも、とある筋からの猛反対が起こり、結果、現在の着流し姿になったそうです。
反対派の理由は、西郷の高い人気を背景に反政府的機運を醸成しかねないとのことで、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図があったとされます。
おそらくそのとおりだったでしょうね。

除幕式の際にはじめて銅像を見た西郷夫人の糸子が、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかった)」と言って周囲を慌てさせたという有名なエピソードがあり、このことを理由に、この銅像は西郷に似ていないといも言われますが、糸子の言葉の真意は、「うちの人はこのような着流し姿で人前に出る人ではなかった」といった意味だったとも言われ、その真偽はわかりません。
まあ、夫人から見れば顔も違って見えたかもしれませんが、この除幕式には実弟の西郷従道も出席しており、また、この銅像の製作においては、西郷をよく知る吉井友美や黒田清隆、樺山資紀らも深く関わっていたわけで、まったく似ていないというわけでもなかったでしょう。
奥さんからすれば、どこか仕上がりに気に食わない部分があったのかもしれません。

逆賊の汚名は返上されていたとはいえ、西郷が反乱軍を指揮した事実は変えようのない歴史です。
その反乱軍の総大将である人物の銅像が、同じ政権下で、死後わずか20年で建てられたという例は、世界中探しても類を見ないそうです。
また、その銅像が日本の首都のもっとも人の目につきやすい場所に建てられたということも、諸外国からすれば理解できないことだったようで、さらに、その除幕式に政府の要人が出席するということを聞いた在日の西洋人は、西洋諸国ではあり得ないこととして驚愕したといいます。
それだけ西郷隆盛という人物が、当時から比類なき英雄として愛されていたということの表れでしょうが、一方で、その西郷の盟友でありながら最後は西郷と敵対する立場となった大久保利通の像は、没後100年経った昭和54年(1979年)にようやく鹿児島の地に建てられましたが、西郷を死に至らしめたとの理由で大久保は死後100年経っても不人気で、銅像建設にも反対運動が大きく、竣工当日も、厳重な警備体制だったそうです。
同じく維新の立役者であり、近代日本の礎を築いた二人なのに、この差は気の毒ですね。
大久保贔屓のわたしとしては、釈然としない思いです。

一般に、西郷は自ら反乱を望んだわけではなく、不平士族の怒りの捌け口を作るため、不平士族に担ぎ出される形で自分の命を預けたのが西郷の最期だったと言われています。
しかし、この解釈は、必ずしも正しいとは言いきれません。
実際、挙兵に至る経緯からその最期に至るまで、西郷自身の心情を吐露した史料は残されておらず、すべては後世の想像にすぎません。
「西南戦争は桐野利秋が起こしたいくさで、西郷はその神輿に乗っただけだ」と言ったのは、戦後、西郷の汚名返上に奔走していた勝海舟の言葉で、西郷を尊敬しながらも政府軍として敵対せざるをえなかった将校たちも、「そうであってほしい」という思いが、不世出の英傑である西郷を死に至らしめたことを正当化する口実になったともいえます。
そう考えれば、西郷の人物像は、その死後、必要以上に美化され、英雄化していったといえなくもありません。

作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、つぎのように述べています。
「政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということは、まれであるといっていい。西郷は倒幕において時代を代表し過ぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せざるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にわからなかった。」
この銅像が建ったときの西郷は、その銅像以上に巨大化された存在になっていたのかもしれません。
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by sakanoueno-kumo | 2018-12-27 14:22 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)