上野戦争に散った彰義隊の墓
前稿で紹介した西郷隆盛像のある上野恩賜公園には、彰義隊の墓があります。
彰義隊とは、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊で、ここ上野が舞台となった上野戦争における佐幕側の部隊です。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は、江戸城に戻ると朝廷に対して恭順の意を示し、ここ上野にある寛永寺で謹慎しますが、その慶喜の護衛と江戸警備の名目で結成されたのが彰義隊でした。
もっとも、表向きの名目は慶喜の護衛と江戸警備ですが、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。
頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎と伴門五郎が就きました。
隊士には旧幕臣のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。

慶応4年3月13日(1868年4月6日)、新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府軍の陸軍総裁・勝海舟との歴史的会談が行われ、その約1ヶ月後の慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城は無血開城されることになり、慶喜も水戸にて謹慎することで決着します。
しかし、それに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。
この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはなく、その後、彰義隊のなかでは慎重派だった渋沢成一郎が離脱して天野八郎ら強硬派がイニシアチブを取ると、ますます過激さを増していきます。

京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。
江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。
その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。

この戦いにおける記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。

彰義隊士の遺体は、しばらく上野山内に放置されていたそうですが、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されました。
説明板によると、正面の小墓石は、明治2年(1869年)に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだそうで、のちに掘出されたそうです。
後ろの大墓石は、明治14年(1881年)12月に、元彰義隊士の小川興郷(椙太)らによって建てられたものだそうで、彰義隊は明治政府にとって賊軍だったため、政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣の山岡鉄舟の揮毫による「戦死之墓」の字が刻まれています。
その後、小川家によって墓所は守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として、東京都が維持管理しています。

彰義隊の墓が建てられたのが明治14年(1881年)で、西郷隆盛像が建てられたのが、その16年後の明治30年(1897年)。
同じ上野恩賜公園内に敵対した西郷隆盛の像と彰義隊の墓が隣接しているわけですが、今は問題ないとして、明治の頃は、関係者はどんな心境だったのでしょうね。
少なくとも、彰義隊の遺族は快くは思っていなかったんじゃないでしょうか。
もっとも、大村の像じゃなかっただけ、マシだったかもしれませんね。
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by sakanoueno-kumo | 2018-12-29 00:37 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)