伝馬町牢屋敷跡・処刑場跡(吉田松陰終焉之地)

東京メトロ日比谷線伝馬町駅を降りて地上に上がったところに、何やら古い石碑と説明板があります。

石碑を見つけるとついつい足を止めてしまうわたしですが、そこには、「吉田松陰先生終焉地」と刻まれた文字が。


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東京に土地勘のないわたしですが、「伝馬町」という地名には何となく聞き覚えがあったのですが、石碑を見て思い出しました。

そうだ、処刑場があったところだ!・・・・と。

この日わたしは別の目的で伝馬町駅を降りたのですが、こういうものを見つけてしまうと、立ち寄らないと気がすみません。


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駅の北側にある大安楽寺の門横に、「江戸伝馬町処刑場跡」と刻まれた石碑があります。


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まるで鮮血で書いたような文字ですね。


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境内には、「江戸傳馬町牢御椓場跡」と刻まれた石碑も。

つまり、ここは牢獄死刑場が一緒になった拘置所だったわけです。


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大安楽寺の北側にある十思公園も、伝馬町牢屋敷の敷地でした。

伝馬町牢屋敷は、慶長年間(1600年頃)から明治8年(1875年)まで270年にわたって数十万人の囚人を収容しました。

幕末期には、安政の大獄で捕まった吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らもここに収監され、処刑されています。


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公園内には、発掘された牢屋敷の石垣が展示されています。


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石の上にのってい乗っているのは、公園で遊んでいた親子の荷物です。

除けてくれないかなぁと思いながら待っていたのですが、その気配がなさそうなので、やむなくそのまま撮影(苦笑)。

まあ、公園なので仕方ありません。


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公園の片隅には、「松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑と、辞世の句が刻まれた歌碑、そして顕彰碑が並んで建てられています。


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安政6年5月25日(1859年6月25日)、萩から護送された吉田松陰は、6月25日(7月24日)に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日(8月7日)、ここ伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まりました。

松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜密談して反幕府政治工作を企てたのではないかという疑いで、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった幕府批判の落とし文を書いたのではないかという嫌疑でした。しかし、松陰はそのどちらも見に覚えがなく、臆することなく否認します。

「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」

(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)と。

その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれませんが、しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。

というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。

なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。

光明正大にもほどがありますよね。

このときの松蔭について、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では次のように書いています。


「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」


取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。


「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」


元は孟子の言葉で、松蔭の語録でもあるこの言葉どおり、誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?


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松蔭の取り調べは、その後、9月5日(9月30日)、10月5日(10月30日)と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。

しかし、10月16日(11月10日)の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。

そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。

これに松蔭は激しく異をとなえます。

もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。


「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」

(全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。

その話によると、10月5日(10月30日)の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。

その刑を下したのは、大老・井伊直弼だったと。

死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。

その冒頭の句が、この石碑に刻まれた有名な歌です。


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

(この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


この歌が、その後、松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。


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『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日(11月21日)朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。

そして駕籠にてここ伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。

享年30。

このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。


「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」


こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。

そして、もうひとつ。


「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

(子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の知らせを父母が知ったら、なんと思うだろう)


これも有名な辞世の句ですね。

哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。

後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。

なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-11 02:15 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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