人気ブログランキング |

いだてん~東京オリムピック噺~ 第6話「お江戸日本橋」 ~『黎明の鐘』となれ!~

 明治44年(1911年)11月18日に行われた第5回ストックホルムオリンピック国内予選大会の結果を受けて、大日本体育協会はマラソンで世界記録を樹立した金栗四三と、100m、400m、800mで優勝した東京帝国大学卒業生の三島弥彦の二人を、日本代表としてストックホルムへ送り込むことを決めました。しかし、出場要請を受けたふたりの最初の反応は芳しくはなかったようです。オリンピックと言われても、当時の日本人にとってそれほど知られてはいなかったでしょうし、オリンピック代表となることが、それほど名誉なこととも思われていなかったでしょう。また、スポーツ自体も、学生の道楽程度にしか思われていませんでした。ストックホルム行きの要請を受けた三島弥彦は、東京帝大総長に、「たかが駆けっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」と相談したといいます。当時の日本人にとって、オリンピックはその程度の認識でしかなかったんですね。


 また、同じく日本代表に選ばれたマラソンの金栗四三も、当初はその要請に積極的ではありませんでした。その理由は、単純に「自信がない」ということでした。羽田のレースでは思わぬ好成績を出すことができたものの、自分が世界のレベルで戦えるとはとても思えない。とても国民の期待に答えることはできない、と。世論は金栗の世界記録樹立のニュースに歓喜していましたが、当の本人は、これが出来すぎの結果であることを、冷静に認識していたんですね。しかし、そんな金栗に対して、嘉納治五郎は次のように諭します。


e0158128_19143177.jpg「わが国はまだ各方面とも欧米の先進国に遅れ、劣っている。取り分け遅れている部門に体育スポーツがある。オリンピックは欧米諸国参加のもと、すでに20年前に開催されている。私は高等師範の校長として全生徒に放課後に1時間の課外運動をやらせ、君も徒歩部員として毎日走っているが、日本の他の大学ではほとんどこんな時間は与えていない。君の準備が十分ではなく、万一ストックホルムのマラソンで敗れたとしても、それは君一人の責任ではない。何事によらず先覚者たちの苦心は、昔も今も変わりはない。その苦心があって、やがては花の咲く未来をもつものだ。日本スポーツ発展の基礎を築くため、選手としてオリンピック大会に出場してくれ・・・」(引用:「嘉納治五郎」嘉納治五郎先生伝記編纂委員会)


 しかし、一介の学生に過ぎない金栗にしてみれば、「日本スポール発展の基礎を築くため」と言われても、「自分には荷が重すぎる。」として余計に尻込みするだけでした。


 嘉納はさらに説得を重ね、「勝ってこいというのではない。最善を尽くしてくれればいいのだ。」と促したうえで、こう続けました。


 「何事も初めはつらい。自信もなかろう。しかし苦労覚悟で出かけていくことこそ、人間として誇りがあるのではなかろうか。スポーツにしてもしかり、捨て石となり、いしずえとなるのは苦しいことだ。敗れた時の気持ちはわかる。だが、その任を果たさなければ、日本は永久に欧米諸国と肩を並べることが出来ないのだ。このオリンピックを見逃したら、次の機会は4年後にしかやってこない。もう4年の空白を指をくわえて待つ時期ではないのだ。金栗君、日本のスポーツ界のために『黎明の鐘』となれ!」(引用:「走れ25万キロ-マラソンの父金栗四三伝」)


 有名な「『黎明の鐘』となれ!」の言葉は、このときのものだったんですね。


 歴史の話を少ししておきましょう。日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清国から多くの留学生が日本にやってきていました。日本と清国は日清戦争で戦った間柄でしたが、その後、清国の政府は、戦前までの方針をあらため、封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進める方針をとっていました。その清国からの留学生を最初に受け入れたのも、嘉納治五郎でした。嘉納は清国からの留学生のために宏文学院を開校し、13年間存続しました。その間の留学生は7192名、卒業したのは3810名でした。この頃の日清関係は、のちの日中関係のような深い溝はまだなかったんですね。


e0158128_16340747.jpg そんな最中、清国では大きな革命が起きます。日清戦争後、清王朝は義和団事件などの影響で弱体化していました。これに反発を強めた漢民族が、弱体化した清王朝の支配者である満州民族を追い落とし、新しく中華民国を建国します。これが、日本の元号でいえば明治44年(1911年)のことで、この革命を辛亥革命と呼びます。この革命の中心人物として中華民国の代表者に選ばれたのが、当時、革命運動家として有名だった孫文でした(ただし、孫文は暴動が起きた時点ではアメリカにいたため、革命そのものには参加していません)。この革命によって、約250年続いた清王朝は幕を閉じ、最後の皇帝・溥儀は退位します。映画『ラスト・エンペラー』の主人公ですね。この溥儀が、のちに日本の傀儡国家として建国された満州国皇帝に祭り上げられるのですが、それはずっと先の話。また、新たに建国した中華民国も、臨時の代表となった孫文に統治能力はなく、ゴタゴタのなか孫文を退けて実権を握ったのが、袁世凱でした。袁世凱は大総統になって独裁政治をはじめ、孫文は日本に亡命することになります。


 辛亥革命の影響は、日本に滞在中の清国留学生にも及びます。祖国が消滅したわけですから、当然ですよね。しかし、ドラマで描かれていたように、そんな留学生たちのために嘉納治五郎は多額の借金をして援助したといいます。このときの借金を、嘉納は生涯返せなかったとか。教育者の鏡といえるエピソードですが、この時代の政治家や学者たちは、国事のために私財を投げ売ったという話は珍しくありません。明治の指導者たちは、自分たちが日本を作っているという意識が強かったのでしょう。現代の政治家さんたちにも、その爪の垢を煎じて飲んでほしいものです。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2019-02-11 16:34 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

トラックバックURL : https://signboard.exblog.jp/tb/27997323
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]

<< 桜満開の赤穂城を歩く。 その1... 月山富田城跡登城記 その5 「... >>