桜満開の赤穂城を歩く。 その3 「本丸」
「その2」の続きです。
いよいよ赤穂城本丸を攻めます。
写真は本丸門。
発掘調査の遺構に基づき、明治時代の古写真や絵図を参考にして平成8年(1996年)に総工費6億7,000万円をかけて完全復元したそうです。

本丸門は枡形虎口の形状で、手前に高麗門、奥に櫓門が見えます。
大手門では高麗門だけが復元されていましたが、こちらは櫓門もあります。
やはり、高麗門と櫓門がセットで揃うと見事ですね。
THE城門!って感じです。

説明板によると、奥の脇戸付櫓門が一の門で、木造本瓦葺入母屋造り、幅13m、高さ11mあるそうです。
手前の高麗門が二の門で、木造本瓦葺切妻造り、幅4m、高さ6mだそうです。

説明板には古写真が掲載されています。


本丸門の左右に伸びる内堀です。

一の門の高麗門をくぐると、枡形にニの門の櫓門が見えます。
枡形内は思った以上に狭く、これは攻めにくい。

ニの門の横の石垣の上には狭間が並び、向かいには雁木があります。
ここに閉じ込められたら、上から撃たれ放題。
まさに袋のネズミですね。

櫓門をくぐると、櫓の内部無料公開の看板が。
これはラッキー。

本丸側から見た櫓門です。

そして、こちらがその内部。
往時はここに門番が詰めていたのでしょうが、今は史料展示コーナーになっています。

櫓門から左右に伸びる土塀には、様々なかたちをした狭間があります。

櫓門から本丸の敷地を見下ろします。
コンクリートで整備された部分は御殿跡で、表御殿、裏御殿、台所の3ブロックに分かれます。
奥の緑の部分は庭園で、その左側に見える石垣が天守台です。

御殿跡に降りてきました。




本丸の案内図と説明板、御殿の見取り図です。

地面には、その間仕切りを示した石盤が埋め込まれていて、たいへんわかり易い。


コンクリートもただ敷き詰めているだけじゃなく、板間は板の形状、畳の間は畳の形状をしていて、実にディテールにこだわった再現でした。

そして、こちらが奥の天守台です。

赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)より13年以上の歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものです。

つまり、太平の世になってからの城で、この時代に築かれた城の多くは、徳川幕府への遠慮で天守が築かれませんでした。
赤穂城もその例外ではなく、天守台のみ築かれて、その上に天守が築かれることはありませんでした。

天守台の上は芝生が敷き詰められています。
当初は5層天守の造営の計画もあったといいますが、それほど大きな面積ではありません。

天守台から北側の御殿跡を見下ろします。
向こうに見えるのが二の門の櫓門。
往時は建物があったわけですから、門は見えなかったでしょうね。

こちらは、天守台の西側にある表御殿大池泉と庭園です。
桜並木が見えるのは、本丸を囲う石垣と内堀の外です。
天気が良かったら、綺麗な眺望だっただろうなぁ。

天守台を降りて庭園を歩きます。
この池も、発掘調査に基いて復元されたものです。

本丸南側にある刎橋門跡。

その名称のとおり、かつてここにははね上げ式の橋があったそうで、二ノ丸と通じていました。
向こうに見える桜並木は、二ノ丸です。

さて、本丸をあとにして、「その4」は二ノ丸の桜を観にいきましょう。
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by sakanoueno-kumo | 2019-02-16 11:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)