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日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その3 <本丸>

「その2」丸岡城天守を制覇しましたが、本稿は天守周辺を歩いてみます。

残念ながら本丸を囲んでいた堀は埋め立てられていて、天守の建つ丘の上以外はその遺構を見ることはできません。


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本丸南側には、立派な食い違い虎口のかたちをした石垣と石段が残ります。

かつてはここに櫓門のようなものがあったのでしょう。


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その横には、木造の建物で覆われた井戸があります。

説明板によると、織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝豊がこの地に築城しますが、一向一揆の残党が攻撃を仕掛けてくることがしばしばあったそうで、しかし、その都度、この井戸より大蛇が現れ、城に「かすみ」をかけて危機から救った・・・という伝説があるそうです。

この伝説から、丸岡城を別名「霞ヶ城」と呼ぶようになった、と。

現在でも、春先などに「かすみ」に覆われた「霞ヶ城」を見ることができるそうです。

大蛇は現れないと思いますが(笑)。


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丸岡城の石垣はすべて野面積みですが、そのなかでも、大小さまざまな石が使用されている「野面乱積(みだれづみ)」という工法だそうです。


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角が鈍角に積まれた様式は「しのぎ積み」と呼ばれ、古い積み方です。


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本丸の丘の上には、古い石の祠があり、その横には「お静慰霊碑」と刻まれた比較的新しい石碑があります。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


伝説「人柱お静」


これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(一五七六)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。

そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮しをしていた片目のお静であった。

お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。

それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。

しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。

お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、“お静の涙雨”と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。

「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。


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この種の人柱伝説は、各地の城に伝わっています。

それだけ多く伝わっているということは、「霊」云々は別にして、「人柱」という無慈悲な慣わしが各地で本当に行われていたことを意味しています。

実際、現在の皇居(かつての江戸城)から、大正関東大震災の際に倒壊した櫓の石垣のなかから、頭の上に古銭が1枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されて大騒ぎになったという事実もあります。

そういう時代だったといえばそれまでですが、惨い歴史ですね。


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初代城主・柴田勝豊の陣幕毛氈床几3点セットです。

毛氈はたぶん、元はだったんでしょうが、紫外線で色が飛んじゃってます。


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そして、同じ本丸公園内には、あずまやのなかに不気味な石棺が。


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これは「牛ケ島石棺」と呼ばれる古墳時代の棺で、丸岡町牛ケ島の東方にあった古墳(御野山古墳)から出土したと伝えられるものだそうです。

丸岡城とは関係ありませんが、おなじ丸岡町の史跡としてここに展示しているんでしょうね。


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丸岡城の城主は柴田勝豊のあと、柴田勝家の家臣・安井家清に代わりますが、勝家が羽柴(豊臣)秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、その家臣の青山宗勝を城主とします。

しかし、その子・青山忠元のときに関ヶ原の戦い西軍に与したため改易

越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封して北ノ庄城(のちの福井城)を築城し、ここ丸岡城には秀康の家臣・今村盛次2万6千石を与えられ入城しました。

ところが、その今村盛次は越前騒動に連座して失脚

幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重4万3千石で新たな城主となり、その後、福井藩より独立して丸岡藩となり、本多家は大名となります。

ところがところが、その本多家もお家騒動により4代で改易

代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城し、以後、幕末に至るまで8代続きました。


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現存天守12城のひとつに数えられる丸岡城ですが、天守以外の遺構はほとんど残っておらず、堀も埋め立てられ、公園の丘の上に天守だけがあるといった感じでした。

城好きにとっては、天守だけじゃなく縄張りの遺構に魅力を覚えますから、少々、残念な城跡って感じでしたね。

とはいえ、全国に12ヵ所しかない天守を持つ城跡ですから、今後も大切に維持管理していってほしいものです。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。






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by sakanoueno-kumo | 2019-03-13 00:28 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2019-03-13 11:00
16体の人骨の話は初めて知りました。
でも、額に古銭が置かれていたのなら、少なくとも、生きたままでは無かったのでは?
暴れたり首を振ったりすればずれ落ちてしまうわけで。
先に窒息させて埋めた可能性も否定できませんが。
これ、興味あるので読んでみたいのですが、何で読めますか?
Commented by sakanoueno-kumo at 2019-03-13 19:19
> heitarohさん

何で読んだかは忘れました。
この稿を書くとき、何かで江戸城の人柱の話を読んだことを思い出し、ネットで調べました。

おっしゃるように、江戸城の16体の人骨については人柱説には否定的な意見も多くあるようです。
江戸城が築かれる以前、そのあたりには複数の寺院あったそうで、その墓地の人骨なんじゃないかという説や、別の説では、江戸城築城時に事故で命を落とした者たちを葬ったのではないかという説などなど。
そっちの方が真実味がありそうにも思えますが、人柱という慣わしがあったことは事実で、江戸城のそれも否定は出来ないのかな、と。

ちなみに、松江城にも人柱の伝説がありまして、拙稿で紹介しています。
https://signboard.exblog.jp/27961504/

この種の伝説は、往々にしてうら若い女性が人柱になっているというのがミソで、中年のおっさんでは悲劇にならないから伝説にはならないのでしょうね(笑)。

ちなみにちなみに、大正時代の常紋トンネルでも、人柱が発見されていますよね。
こちらは伝説というより事件ですが。

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