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いだてん~東京オリムピック噺~ 第12話「太陽がいっぱい」 ~金栗四三の五輪マラソン初挑戦~

 明治45年(1912年)7月14日、いよいよ金栗四三選手が出場する第5回ストックホルムオリンピックマラソンの日がやってきました。天候は快晴。ストックホルムは北欧スウェーデンの首都で、北緯60度に近い位置にあり(ちなみに日本の最北端の稚内でも北緯45度)、亜寒帯気候で7月の平均日最高気温は22度前後という過ごしやすい気候の都市ですが、数年に一度、熱波に襲われることがあり、それが、この年だったそうです。この日のストックホルムの気温は、陽の当たる場所では40度を超えていたといいますから、まさに、本話のタイトルどおり、雲ひとつない「太陽がいっぱい」の日でした。


 ドラマのとおり、この日、それまで床に伏していた大森兵蔵監督が、安仁子夫人の制止をふりきって、金栗選手と共にスタジアムに向かいました。先に行われた三島弥彦選手の短距離走で、自身の体調不良によって力になってやれなかったことが気になっていたのかもしれません。12時半、彼らはホテルを出てタクシーを探したものの拾えず、電車で行こうとするも、満員で乗れなかったようです。そこで、二人は競技場まで歩くことにしました。ドラマのように大森監督を背負って歩いたかどうかはわかりませんが、足手まといではあったでしょう。マラソンのレース前の金栗選手にとって、これは大きな体力の消耗になったでしょうね。


 そもそも、スタジアム近くに大会事務局が用意した選手宿舎があったのですが、日本選手団は、周囲が言葉の通じない外国人ばかりでは気づかれするだろうという理由でこれを利用せず、少し離れた繁華街のホテルを宿としていました。これも、になったんですね。


 なんとか間に合った金栗は、おそらく入念なアップをするゆとりもなく、スタート地点に立ちました。ときの心境をのちに金栗は、「スタートで私は中位、私より小柄な外国人も多くて見劣りは感じなかった。」と語っています。短距離走の三島弥彦選手は明らかな体格の違いに圧倒されたようでしたが、長距離はそれほどでもなかったようですね。


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ピストルの音で出場選手68人が一斉にスタート。マラソンはスタジアムを走って、外に出ていくことになっています。スタート地点では集団の中ほどにいた金栗でしたが、スタートしたとたん、外国人選手は猛スピードで飛び出し、たちまち金栗は最後尾になります。のちの金栗の回顧談です。


 「68人の選手が競技場の外に出たとき、私はビリだった。外国人はぐんぐんスピードを出す。あわてて無理にピッチを上げたのがわるかった」

 「スタートして外人は短距離を走るように走り、私は最後となり、実に面食らった。いわゆる調子がはじめから乱されていた」(『日本スポーツ百年』日本体育協会編)


 スタートでつまづいた金栗でしたが、その後、最初のハイスピードが仇となって失速してきた選手を徐々に抜き去り、少しずつ追い上げを見せます。しかし、次第に暑さによって体力を消耗し、目まいに襲われ始めました。後年、彼はこのように述懐しています。


 「途中で2、30人抜いて折り返し点をまわり、これなら相当いけるぞと思ったのも束の間、脚が痛みだし汗が目に入り、15マイルを過ぎるあたりから意識がぼんやりし始めて、途中で水をのんだりかぶったりしたのがなおいけなかったか」(『日本スポーツ百年』日本体育協会編)


 テレビ中継もラジオ中継もない時代ですが、選手たちの順位は、スタジアムで待つ観客にも逐一伝えられていたといいます。スタンドにいた嘉納治五郎団長をはじめ、大森監督ら関係者たちは、ドラマのようにさぞかし気をもんでいたことでしょうね。もっとも、大森監督がおとなしくベッドで寝ていてくれれば、レース前の体力の消耗はもう少し少なくてすんだでしょうが。


 レースを制したのは、暑さに慣れた南アフリカケネス・マッカーサー選手でした。何より、68名のマラソン競技参加者中、ほぼ半数の33名がゴールできなかったという結果が、このレースの過酷さを雄弁に語っているといえます。そして、その33名のなかに、金栗選手も入っていました。ところが、当初、その途中棄権者リストのなかに金栗の名前がなく、さりとてゴール地点にも現れず、忽然と姿を消してしまっていました。つまり、棄権ではなく失踪しちゃったんですね。その辺の経緯は来週に持ち越しのようでしたので、当ブログでも、ネタバレはやめておきます。つづきは来週にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-25 23:59 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

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