但馬八木城跡登城記 その3 ~石城本丸跡~
「その2」の続きです。
八木城二ノ丸跡(第2郭)から北西を見上げると、本丸跡(主郭)の石垣がドドーーンと目に入ります。

実に見事な石垣です。

本丸跡に登る前に、石垣下を1周してみましょう。

本丸南出隅の石垣です。
算木積みですね。
「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。

算木積みは天正年間(1573~1592年)ごろから見られ始めた技法です。

その下には、説明板が設置されています。

説明板によると、この南隅の算木積みの上に、隅櫓があったのではないかと想定されるそうです。


石垣のアップです。

本丸西側面は、見事な高石垣が続きます。

この高石垣は40mに渡り、高さは8.6mあるそうです。

写真ではわかりづらいですが、中央が「く」の字に折れ曲がっています。

出隅ではなく、入隅に曲がっています。
わかるでしょうか?

石垣は野面積みですね。

反対側(北西側)から見た高石垣です。

そこから曲がった北西部分の出隅です。
ここからは高さ2.5mの低い石垣になります。


北西から西側面にかけて、低い石垣が鈍角の出隅で折れ曲がっていきます。
このような鈍角の積み方を「シノギ積み」といい、算木積みより古い技法です。

北東から南東にかけては、写真のように石垣がフェードアウトしていてなくなっています。

なので、ここから本丸上に登ります。

本丸跡です。

八木城の本丸は長軸47m、短軸23mのいびつな長方形をしています。
本丸の最も奥まった北西の2段の平坦地が天守台の想定地だそうですが、形が不整形なうえに建物跡の礎石や瓦などの跡も見つかっておらず、ここに天守のようなものがあったかどうかは定かではありません。

「その2」でふれたとおり、八木城を300年以上守ってきた八木氏は、15代城主の八木豊信のときに羽柴秀吉軍によって攻略されますが、その後、八木氏は因幡若桜鬼ヶ城に移され、代わって八木城に入ったのは、三木合戦で死んだ別所長治の叔父・別所重宗でした。

現存する八木城の遺構は、郭の配置や虎口の形状、石垣などの築城技法などから総合的に判断すると、天正13年(1585年)に城主となった別所重宗と、それを引き継いだ息子の別所吉治の時代に改修されたものであろうと推定されています。

本丸上にも石仏があります。

本丸北西のいちばん高いところ(天守台跡?)から見た南東です。


本丸上から西側の高石垣を見下ろします。

説明板がありました。


こちらの写真は、「その1」で紹介した麓の八木城交流館のなかにあった八木城本丸の想像模型です。
右手前が算木積みの櫓台石垣で、その左に伸びているのが、くの字に曲がる高石垣です。
この模型と、上の実際の写真を見合わせれば、本丸の形状がよく理解できます。

さて、これで本丸まで攻略できましたが、まだ、さらにここから西側の尾根伝いに登ったところにある八木土城(八木古城)跡が残っています。
「その4」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-04-05 22:31 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)