但馬国守護大名山名氏の本拠、此隅山城登城記。 <後編>
前編の続きです。
西郭を跡にして、主郭を目指します。
ここから主郭までの進路には、小さな郭跡とみられる削平地が連なっています。
いよいよ主郭近しといった感じです。
傾斜がキツくなってきました。
主郭の近くまで登ると、大きな岩がゴツゴツと行く手を阻みます。
足の短いわたしにはツライ(笑)。
ようやく登りきり、広い削平地に出ました。
ここは主郭下の第2郭です。
のちの言葉で言う二ノ丸ですね。
ここまで、麓から約30分ほどです。
二ノ丸と主郭の間にある「切岸」です。
切岸とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた防御壁です。
その説明書き。
そして、ここを登ると主郭です。
いざ!
主郭です。
のちの用語でいえば本丸ですね。
此隅山城の主郭は標高140mの山頂にあり、南北42m、東西15mの細長い形をしています。
此隅山城は但馬国の守護大名・山名氏の居城として、伝承では応安5年(1372年)頃に山名時義が築城したとされていますが、定かではありません。
応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では、西軍の総帥となった山名宗全(持豊)の元に計2万6千の軍勢が集まったといいますが、それも、ここ此隅山城だったと伝えられます。
此隅山城が古文書ではじめて確認できるのは、永正元年(1504年)夏のことで、山名致豊と垣屋続成との抗争で、垣屋続成が山名致豊と田結庄豊朝の立て籠もる此隅山城を攻めたという記述が残っています。
しかし、戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569年)に織田軍の羽柴秀吉の但馬侵攻によって但馬国の18の城が落とされ、そのとき、ここ此隅山城も落城しました。
この後、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)にここから約3km南の有子山山頂に有子山城(参照:有子山城跡と出石城跡登城記。)を築いて本拠としました。
此隅山城は別名・子盗城とも言いますが、その「子盗」という名を山名祐豊が嫌って、次の城は「有子」城と名付けられたともいわれています。
主郭からの眺望です。
主郭に設置された説明書きと縄張り図です。
縄張り図を見ると、主郭を中心に、尾根伝いに四方に郭が多数連なっているのがわかります。
説明書きによると、尾根という尾根にこれだけ多数の郭を設けている例はあまりないそうです。
主郭はそれほど大きくはありませんが、縄張り全体で見ると、南北約750m、東西約1200mもあり、但馬国最大の大城郭だったことがわかります。
下山しました。
此隅山城の遠景です。
なんか、カメラの設定が狂っていたようで、色が変になっちゃっています。
南側に目を向けると、有子山城も見えます。
山名氏はその後、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、有子山城は落城。
200年に渡って隆盛を誇った山名氏は滅亡しました。
栄枯盛衰は世の慣いです。
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by sakanoueno-kumo | 2019-04-19 00:30 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)