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漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その2「本丸下の段」

「その1」の続きです。

岡山城本丸は、下の段、中の段、本段の三段で構成されています。

本稿では、下の段を歩きます。


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上の写真は中の段南西隅の大納戸櫓下石垣です。

見てのとおりの野面積みですが、それほど古いものではなく、関ヶ原の戦い後小早川秀秋が築いたものだそうです。


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下の段西側の石垣です。

コの字型になっているのですが、向こうの出隅部分の石垣が打込み接ぎ、入隅より手前の赤みがかった石垣が野面積み、手前の低い石垣が切込み接ぎと、明らかに築いた時代が違うであろう3種の石垣が一度に見られるスポットです。


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左が打込み接ぎ、右が野面積みですね。


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こちらは、左が野面積み、右下の低い石垣が切込み接ぎです。


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説明板によると、野面積みの部分が関ヶ原の戦い後に小早川秀秋が築いたもので、打込み接ぎ部分が1620年代に池田忠雄が築いたものだそうです。

その奥には、宇喜多秀家時代の石垣が埋まっているそうです。


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ここらで岡山城の歴史について触れておきます。

岡山城の前身は、南北朝時代に南朝の功臣・名和一族上神高直という人物が築いたとされる石山城と呼ばれる城だったといいます。

しかし、その後についての史料がなく、150年以上に渡って城主も不明で、どのような城だったかも定かではありません。


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次に石山城の存在が記録として確認できるのが、大永年間(1521~27年)に金光備前が在城し、金川城主松田氏に仕えていたという記録です。

この金光氏を滅ぼしたのが、宇喜多秀家の父・宇喜多直家でした。

元亀元年(1570年)に石山城を手に入れた直家は、城の大改修に着手し、3年後の天正元年(1573年)に入城しました。

しかし、その8年後の天正9年(1581年)に直家は死去し、その後、跡を継いだ当時10歳だった秀家は、豊臣秀吉庇護を受けて成長し、57万石の大大名に成長すると、この地に新しく大規模な城を8年の歳月を掛けて築城し、慶長2年(1597年)に完成しました。

このとき、名称を「岡山城」とし、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ぶようになったそうです。


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その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いたことで秀家は八丈島へ流罪となり、代わって筑前国名島より小早川秀秋が備前・美作52万石の大名として岡山へ入封します。

しかし、その秀秋も2年後に急死し、嫡子もいなかったことから小早川家は断絶となりました。

その翌年の慶長8年(1603年)に播磨国姫路藩主の池田輝政の五男・池田忠継28万石で岡山藩主となり、その後は幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。


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と、歴史を語っている間に下の段北側まで歩いてきました。

写真は、中の段北西の隅櫓・月見櫓を下の段から見上げたものです。


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月見櫓は本丸内で唯一現存する櫓で、元和元年(1615年)に岡山藩主となった池田忠雄が建てたものだそうです。


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その説明板です。


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月見櫓を見ながら、下の段北側を東に向かって歩きます。

石垣は、小納戸櫓下の石垣です。


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きれいな打込み接ぎです。


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小納戸櫓下の石垣の東側には、漆黒の天守が見えます。

小納戸櫓と天守台の間に、中の段に繋がる搦手門廊下門があります。


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これがその廊下門(再建)です。


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廊下門前から見上げる天守北側です。

その手前に見える石碑は、宇喜多直家・秀家父子を称える顕彰碑です。


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これがその顕彰碑。


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天守です。


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よく見ると、一層目に鈍角に突き出した角があることがわかるでしょうか?

岡山城の天守は、珍しい不等辺五角形になっています。

これは、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかという説や、豊臣秀吉の大坂城天守を模しているという説、また、当時の土地の形をそのまま利用したからこうなったという説など、様々な見方があるようです。


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天守台の石垣です。

野面積みですね。

これは、最も古い宇喜多秀家の築城時のものだそうです。


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説明板によると、石垣が赤く変色しているのは、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲時によるものだそうです。


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天守台沿いにそのまま下の段東側に向かって歩きます。


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下の段東側の水の手と本段をつなぐ六十一雁木上門(要害門)です。

要害門とは、非常口のようなものでしょうか?


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「六十一雁木上門」という名前の由来は、江戸時代初期に整備された際に、61段の石段があったことにちなんでいるそうです。


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門は再建ですが、石垣や石段は池田氏時代に築かれたものです。


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下の段南側にやってきました。

写真左側に見える建物は、中の段と本段を結ぶ不明門(復元)です。

その右側に続く白塀の下の高い石垣は、本段の石垣。


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石垣は宇喜多時代のものだそうです。


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その説明板です。


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門の下の石垣だけ色が新しいのは、たぶん、門を復元する際に足されたのでしょうね。


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ここから中の段に登ります。

下の段だけでずいぶんと長くなっちゃいました。

次稿、中の段を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-25 10:38 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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