漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その3「本丸中の段」
「その2」の続きです。
下の段南面から中の段に登ります。
ここも枡形虎口になっており、不明門(復元)を見上げながらL字に曲がらされます。

石段を登ると、鉄門跡があります。

この両側の石垣を渡すように、かつて鉄板で覆われた櫓門がありました。

鉄門跡を過ぎてまっすぐ西へ進むと、中の段南西隅櫓の大納戸櫓跡があります。
この大納戸櫓は、櫓の多さでは全国で最多級といわれる岡山城の櫓のなかで最も大きな3重4階の櫓で、その姿は天守といってもいいような雄姿だったといいます。

説明板に、古写真に写るその姿が紹介されていました。
一説には、永禄年間(1558~70年)に宇喜多秀家の父・宇喜多直家が築いたといわれる沼城の天守を移築したものとも言われます。
沼城は岡山城の北東10kmほどの位置にありました。
古写真に残る大納戸櫓は、城郭の天守が登場したころの形態を示していることから、沼城の天守だったという説の信憑性は高いと考えられているそうです。


大納戸櫓から中の段西側を北に向かって伸びる多門櫓跡です。
説明板によると、大納戸櫓から伊部櫓の間に、長さ37m、幅4mの多聞櫓があったそうです。


ここがその伊部櫓跡。
説明板によると、伊部櫓は白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。


そして、伊部櫓と北側の数寄方櫓をつなぐ長さ30m、幅5mの多門櫓跡です。


そして、ここが数寄方櫓跡。
数寄方櫓も伊部櫓と同じく白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。

そしてこちらが、中の段北西隅にある岡山城唯一の現存する櫓、月見櫓です。

月見櫓は、池田氏二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、本丸搦め手に備えて建てた隅櫓です。
1階が5×4間で、地上2階、地下1階の構造で、城外側から見ると二重に見え、城内側から見ると、地階に屋根がつくため三重に見えます。
変則的な櫓で、櫓からの眺望を考慮して城内側は開放的になっており、櫓では珍しく最上階に廻縁がついています。
その名のとおり、ここで月見の宴が催されていたのかもしれません。

説明板です。

石碑には、「国宝」と刻まれていますね。
これは、戦前の「旧国宝」のことです。
現在は重要文化財に指定されています。

中の段の真ん中には、かつて表書院がありました。
表書院は岡山藩の政庁の役割を果たしていた建物で、大小60を超える部屋があったとされています。
現在、その建物は残っておらず、だだっ広い空間にその区画を示す部屋割りが地面に表示
されています。



説明板には、その平面図が紹介されていました。


中の段表書院跡から見上げる天守です。


こちらは、表書院の中庭にあった泉水。
復元です。


こちらは穴蔵。
もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたと考えられています。


中の段広場内には、発掘調査で出土した宇喜多秀家時代の石垣が展示されています。



これらの石垣は、出土した場所にそのまま残されて展示されています。
写真を見てわかるように、かなり深い場所から出土しています。
この出土によって、この中の段が江戸時代での城域の拡張工事の際に作られたということがわかります。

で、最初に紹介した鉄門跡のすぐ上にある不明門(あかずのもん)です。
その名の通り、儀式のとき以外に開かれることはなく、この名称となったそうです。
でも、南側の鉄門跡から不明門は、大手門にあたるはず。
大手門は使用せず、鉄門から表書院の中を通って北側の搦手門の廊下門から本段に登っていたのでしょうか?

昭和41年(1966年)再建の鉄筋コンクリート製ですが、立派な門です。
こんな立派な門なのに、使われていなかったなんてもったいない。

さて、不明門を潜って、「その4」では、いよいよ本丸本段に登ります。
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by sakanoueno-kumo | 2019-04-26 21:09 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)