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いだてん~東京オリムピック噺~ 第16話「ベルリンの壁」 ~第一次世界大戦~

 大正3年(1914年)6月28日、バルカン半島のサラエヴォで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が自動車に乗っているところをピストルで撃たれ、夫婦揃って暗殺されました。犯人はオーストリアのバルカン半島支配に反発する青年でした。この事件でセルビアドイツの関係が悪化し、とうとうドイツがセルビアに宣戦布告。それがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発します。


 この時代の世界情勢は、19世紀から続く植民地争奪競争の真っただ中でした。明治43年(1910年)にはイギリスがアフリカ大陸の南の端のボーア人の国に攻め込み、これを征服して植民地とし、南アフリカ連邦を作りました。そして、その奥地のキンバリーという鉱山を押さえ、そこから出るダイヤモンドを独占します。これを見たドイツやフランスも、指を加えて見ているわけにはいかず、負けじとアフリカ大陸に植民地を作りました。アジアでも、ロシア旅順、大連を租借して鉄道を敷くと、ドイツは青島を租借して、そこから済南まで鉄道を造る。フランスはベトナムを領土にしていましたから、そこから更に手を伸ばして南の広州湾を租借する。そして日本も、韓国併合に続いて満州に手を伸ばすなど、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、世界の植民地争奪競争は激化していました。


 そんななか、ドイツはオーストリアと手を結び、イギリスはフランス、アメリカと協力し、両陣営の対立が深まっていきます。そして、上述したサラエヴォ事件をきかっけに第一次世界大戦に発展し、これが、4年も続くことになります。


日本は、当時、日露戦争前に結んだ日英同盟があったので、イギリスに加担していました。日本にとっては、遠いヨーロッパでの戦争ということで、特にドイツと敵対する理由もなかったのですが、イギリスからの要請もあり、戦争に加わります。当時の日本は大隈重信内閣でしたが、イギリスに恩を売るために、ちょっとだけ軍事行動っぽいことをやって、勝ち馬に乗っかったという感じの参戦でした。ただ、戦争期間中、ヨーロッパ諸国は大戦に手一杯でアジアに手が回らず、その間、アジアに対する輸出を日本が独り占めにし、たいそうボロ儲けをしたようです。当時、日本は日露戦争で使った莫大な戦費により借金まみれで、財政は困窮を極めていましたが、第一次世界大戦の間の好景気で、一気に財政を立て直します。まさしく、漁夫の利ってやつですね。時代は下りますが、昭和の敗戦後の日本も、焼け野原となった日本を救ったのは、朝鮮戦争の特需でした。言葉は悪いですが、対岸の火事は儲かるんです。戦争で困窮した財政を戦争が立て直す。皮肉な現実です。


 第一次世界大戦の勃発によって、大正5年(1916年)に開催される予定だった第6回ベルリンオリンピック中止となります。開催国ドイツは大戦の中心国ですから、やむを得ない決定だったでしょうね。しかし、金栗四三らにとっては、そんなことは知ったこっちゃなかったでしょう。これによって、金栗は年齢的に最もピークの時期を棒に振ることになります。気の毒としか言いようがありません。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第16話「ベルリンの壁」 ~第一次世界大戦~_e0158128_00063073.jpg これと似た話が昭和の時代にもありましたよね。戦前の東京オリンピックの中止もそうですが、わたしたち戦後生まれでもよく知っているのは、昭和55年(1980年)のソ連アフガニスタン侵攻による西欧諸国モスクワオリンピックボイコットです。「いだてん紀行」では、レスリングの髙田裕司選手や柔道の山下泰裕選手がクローズアップされていましたが、当時、中学生だったわたしがもっとも悔しかったのは、金栗と同じく金メダル間違いなしと期待された男子マラソンの瀬古利彦選手でした。当時の瀬古選手は向かうところ敵なしの絶頂期で、国民も、そして瀬古選手自身も、日本人初のマラソン金メダルを確信していました。事実、それを実証するかのように、モスクワオリンピック後の12月に行われた福岡国際マラソンで、瀬古選手はモスクワオリンピック金メダリストの東ドイツのチェルピンスキー選手を破って優勝します。その後、なんとか瀬古選手に金メダルを獲らせたいという国民の願いは叶わず、4年後のロサンゼルスオリンピック、さらにその4年後のソウルオリンピックでは、残念ながらメダルに届きませんでした。もし、モスクワに瀬古選手が出ていたら・・・。いまでも思わずにいられません。


 モスクワオリンピックの4年後に開催されたロサンゼルスオリンピックは、モスクワのボイコットの報復とばかりに、今度は東側諸国がボイコットしました。


「政治とスポーツは別だ。オリンピックは平和の祭典。4年に一度の相互理解の場なんだよ。たとえ戦時中でも、殺し合いの最中でも、スタジアムは聖域だ!汚されてたまるか!」


 ドラマ中の嘉納治五郎の台詞ですが、残念ながら、この嘉納の理想は、このときも、そして70年後の未来でも、そして現代でも、未だクリアできていません。人間とは愚かな生き物ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-30 00:07 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

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