人気ブログランキング |

いだてん~東京オリムピック噺~ 第17話「いつも2人で」 ~駅伝の始まり~

 第一次世界大戦の長期化に伴う第6回ベルリンオリンピック中止によって目標を失った金栗四三。オリンピックの中止となれば、いつまでも嘉納治五郎の好意に甘えて研究生を続けているわけにはいかず、この年、鎌倉の師範学校で社会科の教師となり、その翌年の大正6年(1917年)4月には東京に戻り、独逸学協会学校で教鞭を執ります。そこで金栗は徒歩部の顧問となり、自身もトレーニングを積みながら後進の育成に励み、マラソンや陸上競技の普及に力を尽くしていくことになります。


e0158128_19143806.jpg 「日本初のオリンピック選手・金栗」の名は全国に知られており、金栗と一緒に走りたいと希望する生徒が次第に増え、金栗は徒歩部主催のマラソン大会を頻繁に行っていたそうですが、そんなとき、ある大きなイベントの企画が持ち上がります。金栗が独逸学協会学校の教師となった大正6年(1917年)は、東京奠都50周年という節目の年だったのですが、読売新聞社がこれを記念して京都から東京間を何人ものランナーでつないで走破するというイベントを企画します。長距離走といえば、その第一人者である金栗を抜きには考えられない。読売新聞社が金栗に協力を打診したところ、即答で快諾したそうです。客寄せパンダであれ何であれ、この企画を主導するのは自分しかいない、そう思ったのでしょうね。


 京都の三条大橋から東京の不忍池までの約516km23区間に区切り、1区間ごとにランナーたちがリレー形式で走る。それも、現在の箱根駅伝のように日没後の中断はなく、昼夜兼行で走りきろうというものでした。江戸時代、東海道五十三次宿場には馬や人足を配置した「駅」が整備され、火急を告げる使者は、ここで馬を乗り継ぎながら先を急ぎました。古来、このシステムは「伝馬制」「駅伝制」と言われており、古くは日本書紀にも記されています。これにちなんで、このレースは「駅伝」と名付けられました。その名付け親は、当時の大日本体育協会副会長で神宮皇學館館長の武田千代三郎だったそうです。題して、「東京奠都五十年奉祝、東海道五十三次駅伝競歩競争」


レースは関東チーム、関西チーム、中部チーム三つ巴競争という企画でしたが、関西は参加選手が揃わず、結局は関東チームと中部チームの一騎打ちのレースとなります。その2チームの内訳も、関東チームは第一高等学校、東京高等師範学校、早稲田大学からの参加だったのに対し、中部チームは愛知一中の生徒たちが中心の編成で、それでも足らず、OB教員、さらには52歳の前校長まで走ったといいます。それに対して関東は、鋭揃いだった上にアンカーが日本のエース・金栗でしたから、レースは1時間42分の大差をつけて関東チームが圧勝します。もともと力の差は歴然としていて勝負になるはずもなかったのですが、しかし、このとき、金栗の走りぶりを見ようと沿道いっぱいに人が溢れたといい、ゴール地点の不忍池の周辺には、万を超える観衆が集まったといいます。大歓声に迎えられてゴールした金栗。このとき、オリンピック中止の無念が少しばかり晴れたかもしれませんね。


 この企画は大評判となり、これをきっかけに「駅伝」なるスポーツが広く知られるようになり、一気に競技人口が増えていったといいます。大成功の企画だったといえるでしょうね。のちに日本発祥のスポーツとして世界共通語となる「駅伝“EKIDEN”」の始まりです。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-05-06 17:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

<< 漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。... 令和の始まり。 >>