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いだてん~東京オリムピック噺~ 第19話「箱根駅伝」 ~箱根駅伝の始まり~

大正8年(1919年)夏には下関から東京までの1200kmを走破する耐久マラソンに挑み、同じ年の11月には日光から東京間の120kmを、学生たちの駅伝チームともに走るというイベントを成功させた金栗四三でしたが、翌年の2月、東京箱根間往復大学駅伝競走を企画、実施します。現在ではお正月の風物詩となった箱根駅伝の始まりです。


e0158128_19143806.jpg そもそもの着想は、大正8年(1919年)10月、金栗が埼玉県の小学校に審判として招かれたその帰路、同じく審判として同行していた明治大学学生の沢田英一と東京高等師範学校の後輩・野口源三郎とともに汽車のなかで陸上競技について語り合っていた際、今度はアメリカ横断マラソンに挑戦しようという話で盛り上がったといいます。沢田英一は、同じ明治大学の出口林次郎とともに、金栗が下関-東京間約1200kmの耐久マラソンに挑む1ヶ月ほど前に、札幌-東京間約830kmを20日間で走破した人物でした。また、野口源三郎は、大正9年(1920年)のアントワープオリンピック棒高跳びの選手として出場して12位になり、大正13年(1924年)のパリオリンピックでは日本選手団の監督を務めることになる人です。彼らが立てた計画は、サンフランシスコから中部農村地帯を横切ってニューヨークまで走るという壮大なもの。1人ではとても不可能だとしても、駅伝形式なら出来なくはないかもしれない。しかし、途中にはロッキー山脈という途方もない山岳地帯が行く手を阻みます。これを越さねばならないとなると、相当な鍛錬が必要だということで、その鍛錬を兼ねた前哨戦として着想したのが、箱根の山越え駅伝だったそうです。つまり、箱根駅伝は、アメリカ横断クイズ・・・じゃなかった、アメリカ横断駅伝のメンバーを選ぶ予選会だったんですね。


 金栗はさっそく報知新聞社に話を持ちかけてスポンサー協力を仰ぐとともに、東京都内の大学や専門学校、師範学校に参加を呼びかけました。しかし、当時は10人の長距離走者を揃えられる学校が少なく、結局、東京高等師範学校、早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学4校のみの出場となります。ともあれ、このとき1校10人の選手で2日間かけて東京-箱根間を往復するという形式が決められました。


 大正9年(1920年)2月14日、スポンサーだった有楽町の報知新聞社前から4校の選手がスタートし、現在まで続く箱根駅伝が始まりました。そのとき審判長としてスタートの号砲を鳴らしたのは、他でもない金栗四三だったそうです。ドラマでもありましたが、当時は、「学生の本分は勉学にあり」という理由から、選手たちは午前中は通常どおり授業を受け、午後からのレースとなりました。そのため、途中で日没を迎えてしまい、往路最終ランナーである5区の選手たちは、地元の青年団たちが松明を掲げて伴走してくれるなかでのレースとなったそうです。


 結果は、往路は明治、東京高師、早稲田、慶應の順で、復路は先行する明治を終盤になって東京高師が激しく追い上げるというドラマチックな展開となり、ゴール間際で追いつき、最後は東京高師がわずか25秒差逆転優勝。時間は15時間5分16秒だったそうで、今より4時間以上も遅いタイムですが、まあ、これは当然でしょうね。何より、4校とも全選手がリタイアすることなく完走したことに意義があったでしょう。特に慶應は往路で10マイルも遅れたにもかかわらず、最後まで諦めずに走破したことで、金栗は「最後迄奮闘した男性的態度は、普く人士の以って模範とすべき」と評しています。このとき始まった箱根駅伝が、来年で100年を迎えるわけですから(第二次大戦中は中止されていたため、100回大会ではありませんが)、第1回大会を完走した4校の選手たちのタスキが、今なお繋がっているといえます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-20 18:47 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

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