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いだてん~東京オリムピック噺~ 第21話「櫻の園」 ~女子体育と日本競泳のスタート~

 大正9年(1920年)夏の第7回アントワープオリンピック大会後、金栗四三はすぐに帰国せずに欧州をまわりました。といっても、ドラマのような傷心の一人旅ではなく、他の選手たちとともに欧州のスポーツ教育の視察旅行だったようです。金栗は第一次世界大戦敗戦国となったドイツを訪問し、4年前に来るはずだったスタジアムを見に行っています。そこで見たドイツ人のスポーツに向かう姿勢に心を動かされ、とくに、若い女性たちが熱心にスポーツに取り組む姿に驚いたようです。日本ではほとんど見られないことでした。しかし、世界では、明治33年(1900年)の第2回パリオリンピック大会から女子の参加が認められており、陸上競技においても女子選手の参加を認めようという動きが出始めていました。このままでは、また日本が世界から取り残される。そう思ったのでしょうね。金栗はこの後、女子体育の振興に力を注ぐことになります。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第21話「櫻の園」 ~女子体育と日本競泳のスタート~_e0158128_19143806.jpg アントワープ大会の翌年の大正10年(1921年)1月より、金栗は女子師範学校に勤務するようになります。専門教科は社会科でしたが、実際には体育教師として赴任したようなものでした。「マラソンの金栗」といえば、今や日本中の有名人でしたから、そのオリンピック代表選手から直々に体育を教われる、これほど光栄なことはないように思いそうですが、当時の女学校の事情は違っていました。この時代の女学校というのは、基本的には花嫁修業の場。おしとやかな良妻賢母を育てることが最大の教育理念でした。そうした場にスポーツを持ち込むというのは、大きな抵抗があったであろうことは想像に難しくありません。「女がスポーツなんてやると、じゃじゃ馬になって嫁のもらい手がなくなる」、そういって最初はなかなか受け入れてもらえなかったようですね。既成概念を変えるというのは、簡単なことではありません。


 さて、物語はマラソンだけでなく水泳にもスポットが当たり始めましたね。日本はアントワープオリンピックに初めて内田正練選手と斎藤兼吉選手という二人の競泳選手を送り込みましたが、結果は惨敗。まったく歯が立たちませんでした。その理由は、体力的なものよりも、その泳法にありました。当時の日本人選手は、水府流抜き手神伝流という日本泳法でしたが、欧米諸国は、すでに最速泳法クロールが主流となっていたんですね。


 クロールはもともと南米先住民の泳法だったそうで、それが18世紀前半のイギリスに伝わり、とある選手がこの泳法を競泳大会で試したところ、圧倒的な速さでぶっちぎり優勝したといいます。しかし当初は、「しぶきをあげながら泳ぐのは野蛮だ」として、あまり普及しませんでした。当時は、欧米でも日本の古流と同じような平泳ぎ横泳ぎが主流だったようです。ところが、近代オリンピックが始まると、美しく優雅な泳法よりもスピードを求められるようになり、クロールが脚光を浴びるようになっていきました。しかし、日本はまだその競泳界の事情を知らなかったんですね。


 日本人初のオリンピック競泳は惨敗に終わりましたが、8年前の金栗らと同じく、世界を目にしたことは大きな収穫だったでしょう。このあと日本競泳界はクロールを取り入れ、飛躍的に向上していくこととなります。その立役者となるのが、このドラマのもうひとりの主人公、田畑政治です。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-03 19:58 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

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