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悲運の藤堂高吉を家祖とする名張藤堂家邸跡を訪ねて。

三重県名張市にある名張陣屋跡を訪れました。

現在残る名張陣屋跡は「名張藤堂家邸跡」として一般公開されています。


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名張藤堂家は、藤堂高虎の養子となった藤堂高吉にはじまります。


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こちらが入口です。


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説明板です。


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敷地内に入ります。


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名張藤堂家は寛永13年(1636年)からこの地に居を構えますが、当時の屋敷は宝永7年(1710年)の名張大火によって焼失したため、現存する建物はその後に再建されたものだそうです。

ただ、それも明治初年に大部分が失われたため、現在残る建物は、ほんの一部だけです。


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建物前の庭です。


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地面にかつての屋敷図面の石板が埋め込まれています。


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建物内に入ってみましょう。


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現存する建物は、「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部だけだそうです。


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名張藤堂家の系図です。

初代の藤堂高吉はなかなか数奇な人生だった人で、元は織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれましたが、本能寺の変で信長死去の後、羽柴秀吉の所望により、実子がいなかった弟の羽柴秀長養子となります。

これは、天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすために丹羽長秀と縁を結ぶ目的だったといわれます。

この縁組で高吉は秀長の後継ぎなるはずでしたが、天下人となった秀吉は甥の秀保を立てたため、話はおじゃんになりました。

その後、高吉を家来と結婚させようとしますが、このとき秀長の家臣だった藤堂高虎が願い出て、高吉を養子に貰い受けました。

このとき、名を高吉としました。


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高虎は実子に恵まれなかったため、高吉を跡継ぎにするつもりでしたが、高虎48歳にして実子が生まれたため、その話はまたまたおじゃんに。

やむなく高吉は高虎の家臣となりますが、高虎は高吉を疎んじはじめ、参勤交代にも同伴しなかったといいます。

高吉は何も悪いことしてないのですが、悲運としか言いようがありません。


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高虎の死後は実子の藤堂高次の家臣として仕えるようになりますが、その高次の命によって高吉は伊勢国へ2万石の移封となり、その後、ここ名張に移封となりました。

その際、次男以下3人に5000石を分知させられ、1万5000石に減封となりました。

高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も、高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれます。

まさに、たらい回し人生ですね。


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中奥の間にあったこの屏風絵は、「長徳」の落款が記されています。

名張藤堂家7代目の藤堂長徳の作品のようです。


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です。

便所も畳敷きなんですね。


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湯殿です。


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茶室「清閑楼」です。


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茶室から見える庭です。


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向こうに見えるのは、太鼓門


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東側の「祝之間」は、武具や書簡など名張藤堂家に伝わる品々の展示コーナーになっています。


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羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡です。

ふたりとも高吉の人生を狂わせた人物ですね。


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こちらは秀吉の朱印状


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さて、建物の外へ出て、先ほど庭に見えた太鼓門を見に行ってみましょう。


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こちらが太鼓門です。


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名張藤堂家と藤堂藩本家の間の確執は高吉の死後も200年近く続きました。

享保19年(1734年)には第5代・藤堂長熙は藩祖・高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけますが、翌年にそれが本家の知るところとなり、本家と分家の一触即発の状態になりました。

最終的には重臣3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹したため落着しましが、長熙は隠居を命じられ、藤堂長美が跡を継ぎました(享保騒動、名張騒動とも)。

以降、本家から2名の横目付が派遣され、徹底した監視下に置かれるようになります。

しかし、第8代当主の藤堂長教が本家の藩主・藤堂高嶷の娘と結婚すると、ようやく両家の関係が徐々に良好になっていったそうです。

現代でも、後継者争い相続争いが確執を生むといった話は珍しくありませんが、200年近い対立というのは、双方、しんどかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-15 20:27 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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