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北摂津、高槻城跡逍遥。

今回は、かつて北摂津にあった高槻城跡を歩きます。

江戸時代、高槻城は北摂津唯一の城郭として重要な役割を果たしていました。


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現在、高槻城の縄張りは市街地化によってその痕跡を見るのは難しくなっていますが、その敷地の一部が城跡公園として整備され、石垣などで演出されています。


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公園の入口に建てられた石碑です。


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その横に設置された説明板


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高槻城の歴史は古く、伝承では永祚2年(990年)に近藤忠範久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが始まりとされていますが、史料が乏しく定かではありません。

その後、南北朝時代に入り、天平7年(1352年)の観応の擾乱において足利尊氏方についた入江左近将監春則が、高槻城に入って居城としたと伝わります。


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高槻城が文献に初めて登場するのは、大永7年(1527年)の桂川原の戦い山崎城に詰めていた薬師寺国長波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録です。

その後、天文22年(1553年)には三好長慶が入城した芥川山城の支城となっていたようで、入江春継が城主となっていましたが、永禄11年9月28日(1568年10月28日)、摂津に侵攻してきた織田信長によって芥川山城が落とされると、高槻城も無血開城に近いかたちで降伏しました。


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その翌年の永禄12年(1569)には、足利義明の功臣・和田惟政が信長の命によって高槻城に入り、近代城郭として整備します。

しかし、元亀4年(1573年)にその子・和田惟長と対立した高山友照、高山右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となります。


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城跡公園内には、その高山右近像があります。


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右近は後世にキリシタン大名として知られていますよね。


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説明板によると、右近は天正2年(1574年)に高槻城の側に壮大な教会堂を建ててキリスト教の布教に努めたそうで、天正9年(1581年)には、イタリアの巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎えて盛大な復活祭を催しています。

宣教師の記録によれば、領民2万5千人のうち1万8千人がキリスト教徒になったとか。


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しかし、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発した伴天連追放令によって行き場を失った右近は、領地、財産を捨てて諸国を転々としたのち、最終的にはマニラに逃れ、そこで非業の死を遂げたという話はあまりにも有名ですね。


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右近像の横には、天守台を模した空間がありましたが、これは復元ではなく模擬

往時の天守はこの場所からもう少し西にある高校の校舎のあたりにあったと考えられており、三重天守だったといいますから、もっと大きな天守台だったはずです。


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現在の公園は、かつての三ノ丸にあたります。


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公園内にある高槻市民族資料館

江戸時代中期に建築された建物を、ここに移築復元したものだそうです。


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高山右近の12年間の城主時代のあと、高槻城は豊臣家直轄領となり、さらに関ヶ原の戦い後は徳川幕府の直轄地となり、譜代大名が頻繁に交代して城主を務めますが、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となると、以後、明治維新まで永井家が13代に渡って城主を務めます。


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その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、翌年には破却されてしまいますが、明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)の敗戦までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊がこの地に駐屯していました。

現在、公園内にはそのことを示す石碑が建てられ、かつての営門跡が残されています。


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営門跡は平和のモニュメントだそうです。


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10世紀から20世紀までおよそ1000年ものあいだ、この地は兵の屯所だったということですね。

まさに、兵どもが夢の跡です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-26 23:00 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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