摂津国茨木城跡を歩く。
先日の稿で紹介した高槻城跡から5kmほど南西あたりに、かつて茨木城がありました。
現在、茨木城があったとされる場所は、茨木市の中心地として宅地化されているため、その遺構を確認することはできません。

茨木城は現茨木小学校付近の小字「本丸」「中土井」付近に中心があったと考えられており、現在、小学校の校門は茨木城の移築櫓門を模したという門が建てられています。

寛文3年(1663年)に大和国小泉藩2代目藩主の片桐貞昌が、父の片桐貞隆の菩提寺として建立した慈光院(大和郡山市)の山門は、茨木城から移築された櫓門を茅葺きに変更したものと伝えられるそうです。
その門を模して、この茨木小学校の門が建てられました。

城門の横にある小学校名の名盤は織部焼だそうです。

片桐氏の家紋「片桐違い鷹の羽」です。

茨木城の築城時期は定かではなく、一説には建武年間(1334年~1336年)に楠木正成によって築かれたとも言われますが、伝承の域をでません。
確かな史料に確認できるのは、戦国時代に摂津国を代表する国人の茨木氏が拠点としていたことです。
この茨木氏は、摂津守護の細川京兆家の被官でしたが、やがて守護家内部の権力抗争に巻き込まれ、文明14年(1482年)に茨木城は攻撃を受けて、茨木氏は没落しました。
以後、茨木城周辺は、京兆家当主の細川政元、守護代の薬師寺氏らによって支配されていたようですが、永禄11年(1568年)に織田信長が上洛したときの記録によれば、茨木氏は城主として復帰を遂げていました。

元亀2年(1571年)、足利義昭を支える高槻城主の和田惟政と摂津最大の勢力を誇る国人・池田氏が衝突するなか、茨木氏は和田氏に与し、その戦いのなか、茨木城近くで起きた白井河原の戦いで破れ、滅亡しました。
その後、茨木城には荒木村重の配下についていた中川清秀が入りました。
荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、中川清秀は信長に降り、その信長が本能寺の変で横死すると、直後の山崎の戦いで羽柴秀吉について功をあげますが、翌年の賤ヶ岳の戦いで戦死ました。

その後、豊臣政権時代は豊臣家の直轄地だったようですが、秀吉が死に、関ヶ原の戦い後は片桐且元が茨木城主となります。
もっとも、且元は豊臣秀頼の補佐役として大坂城につめていたので、実質的には弟の片桐貞隆が城主だったとも言われます。
その後、且元は周知のとおり、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件から大坂の陣にかけて豊臣家と徳川家の間で翻弄され、やがて豊臣家と袂を分かつことになります。

学校の敷地内には城跡を示す顕彰碑が建っていますが、この日は日曜日だっため学校は閉まっており、この角度からの写真しか撮れませんでした。

裏面は外から撮影できました。
「昭和三年十月建立」とあります。


付近を歩いてみると、T字路やL字路が多く、十字路が少ない。
これも、城下町の名残でしょうか?

このあたりの住所は「片桐町」です。
茨木城主の片桐氏からきた地名であることは間違いないでしょう。

茨木小学校の南西にある茨木神社の東門は、かつての茨木城の搦手門を移築したものと伝えられます。

そのことを説明した看板が設置されていました。

茨木神社境内にある「黒井の清水」は、豊臣秀吉の茶会に使用された名水と伝わります。

もう一つ、茨木小学校の北東にある妙徳寺の表門は、かつての茨木城の脇門を移築したものと伝えられます。
現在は幼稚園の入口でもあるようです。

やがて江戸幕府が発布した一国一城令により、北摂津では高槻城だけが残され、大阪夏の陣の翌年の元和2(1616年)、茨木城は取り壊されました。
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by sakanoueno-kumo | 2019-06-28 01:45 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)