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いだてん~東京オリムピック噺~ 第25話「時代は変る」 ~第2部プロローグ~

さて、物語は第2部に入りましたね。スポットは陸上競技から水泳に移され、主人公も金栗四三から田畑政治に代わりました。わたしは、学生時代に自身も陸上部で長距離選手だったこともあり、金栗四三という名前は知っていましたが(といっても、箱根駅伝の創始者という程度ですが)、この田畑政治という人に関しては、まったく名前すら知りませんでした。大河ドラマの制作が発表されてからにわかに関連本を読みましたが、市販されていた本も圧倒的に金栗四三のものが多く、田畑政治のことが詳しく解説された本はあまりありませんでした。なので、ここから先は、主に感想文のようなレビューになるかと思いますが、よければお付き合いください。


e0158128_17574863.jpg 金栗より7歳年下の田畑は、明治31年(1898年)、静岡県浜松市の造り酒屋の次男として生まれました。大商家だった田畑家は、浜名湖口に浮かぶ弁天島別邸を持っていたそうで、ここで田畑は水泳を覚えました。浜名湖を有する浜松は、古来、水泳が盛んな町で、健康な子供は、一日中泳いで遊んでいるような環境だったそうです。また、田畑の祖父も父も若くして肺結核で亡くなっており、病弱な体を鍛えるという目的もあったとか。そんな幼少期を過ごし、やがて県立浜松中学(現・県立浜松北高)に進んだ田畑は、水泳部に入部します。当然のことながら、この時代にプールを完備した学校などなく、練習場所は天然の川や海でした。もっとも、この頃の水泳は、着順を争う「競泳」ではなく、神伝流水府流などの古流泳法を学び、いかに美しく長い距離を泳ぐことができるか、ということに重点が置かれていたそうです。幼いころから浜名湖口の潮流に慣れ親しんできた田畑は、その腕前は水泳部でも抜きん出ていたそうです。


 ところが、4年生のとき、慢性虫垂炎大腸カタルを併発する大病を患い、医者から水泳を続けることを禁じられてしまいます。普通なら、ここで意気消沈してしまうところですが、田畑少年は、自らの選手生命は断念したものの、「浜名湖の水泳を日本一にする」という目標を掲げ、後進の育成に力を注ぎます。具体的には、弁天島の海水浴場で練習する4つの中学校を束ねて「浜名湾遊泳協会」を創設し、当時、各学校でバラバラだった泳法を統一し、レベルの向上を図ります。15、6歳のときの話ですからね。田畑のリーダーとしてのポテンシャルの高さが窺えますね。


 学業優秀だった田畑は、やがて旧制第一高等学校、東京帝国大学に進学。その間も水泳に対する情熱は冷めることなく、夏休みには地元に帰り、後輩たちを熱血指導しました。そして大正11年(1922年)には、全国競泳大会で浜名湾遊泳協会を優勝に導きます。


 大正13年(1924年)、東京帝国大学を卒業した田畑は、朝日新聞社に入社。当時、帝国大学の卒業生のほとんどは高級官僚を目指し、民間企業に就職するとしても、三井三菱といった財閥系の大企業に就職するのが普通でした。新聞社の社会的地位は今ほど高くなく、帝大生は見向きもしなかったそうです。そういった意味でも、田畑は変わり者だったようですね。


 新聞社に入社してからも田畑は水泳に関わり続けました。そして、入社した年の10月には、大日本水上競技連盟理事に就任します。入社半年の新入社員の若造ですからね。当時、それほどスポーツ団体というものが重視されていなかったとはいえ、ありえない人選です。田畑は水泳会の代表として、大日本体育協会の会合にも頻繁に参加するようになり、嘉納治五郎らともやりあっています。帝大出身の秀才で弁も立ちますから、体協の猛者たちは、持て余し気味だったようです。また、朝日新聞社で政治部に所属していた田畑は、政友会の担当となり、鳩山一郎に目を掛けられ、当時の大蔵大臣、高橋是清からオリンピック出場のための補助金を取り付けることに成功しています。ドラマでも描かれていましたね。すごい行動力、交渉力、そして実行力です。こんな若者、いまはまずいないでしょうし、いたとしても、社会から弾かれるでしょうね。


 ちなみに、ドラマで描かれていた「光文事件」。あれは実際にあった話で、大正15年(1926年)12月25日の正天皇崩御直後、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が号外を出して次の元号は『光文』と報じました。これに便乗して報知新聞、都新聞も号外を発表、読売新聞なども追随しましたが、その後、発表された元号は『昭和』。大きな誤報となりました。この誤報によって東京日日新聞の編集長が役職を解かれるという事態にまで発展しますが、一説には、当初は『光文』に決定していたものの、事前に漏洩したため、発表直前に『昭和』に変わったとも言われます。しかし、一方では、決定していた元号を直前で変えるなどありえないとする見方もあり、今となっては真相は藪のなかです。先日の『平成』から『令和』への改元のときも、様々な憶測が飛び交っていましたよね。しかし、結果はほとんど予想されていなかった『令和』という元号でした。やはり、国の威信にかけても、簡単に予想できたり事前に情報が漏れるような元号にはできないんでしょうね。


 あと、金栗四三の三度目の出場となった第8回パリオリンピックも少しだけ紹介されていましたね。当時34歳のベテランランナー金栗にとってはラストチャレンジでしたが、結果は酷暑のなか、32km地点での棄権となりました。しかし、ストックホルムのときのような挫折感はなく、レース後、引退を決意します。しかし、日本マラソン界のパイオニア・金栗四三のドラマは、まだまだ続きがあるんですね。それは、今後の物語に譲ることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-01 17:58 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

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