三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その3 ~主郭~
「その2」の続きです。
二之郭の北の細い道を西に進むと、急に視界が開けた場所に出ます。
そこには、芥川山城跡ではなく「城山城跡」と刻まれた小さな石碑があります。
石碑の脇には、南へ下る道があります。
どうやらこの道が大手道のようです。
ここが、大手筋ルートと塚脇ルートの交差点になっているようです。
石碑を過ぎると、主郭と二之郭を結ぶ細長い帯曲輪となっています。
主郭虎口。
細い喰違虎口となっています。
主郭部に登ってきました。
主郭は三段構造になっており、それぞれの名称はわかりませんが、一番下の段の曲輪を主郭南展望曲輪とでも呼びましょうか。
展望曲輪からの南側の眺望です。
遠くにあべのハルカスが見えます。
こちらは、三好長慶が永禄3年(1560年)に芥川山城から移り住んだ河内飯盛山城のある飯盛山(参照:河内飯盛山城跡)。
ここ芥川山城跡とともに続日本100名城に選ばれています。
展望曲輪から北を振り返ると、主郭が見えます。
展望曲輪から主郭に登る虎口。
ここも喰違虎口となっています。
登ってきました。
ここは主郭下段とでも名付けましょう。
「桜広場」と書かれた看板があります。
ここを訪れたのは令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。
桜の季節には少し早かった。
主郭下段の北側には、いよいよ主郭があります。
で、主郭に登ってきたのですが、いきなり視界に飛び込んできたのは、傾いた巨木。
そして、根こそぎ横倒しになった巨木もあります。
「その2」の二之郭でもふれましたが、前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。
それにしても酷い。
横にある祠は三好長慶を祀ったものだそうです。
芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされています。
『瓦林政頼記』によると、「芥川ノ北ニ当リ、可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘ」と伝え、その普請は、「昼夜朝暮五百人、三百人ノ人夫、普請更ニ止時ナシ」と記されています。
かなり大規模な工事だったことがわかります。
細川高国は室町幕府の政治をほしいままにしていた人物ですが、しかし、大永6年(1526年)に細川晴元が高国打倒の兵を挙げると、享禄4年(1531年)に滅ぼされ、その後、天文2年(1533年)には代わって細川晴元が入城。
管領に就任して政権を掌握しました。
しかし、それも長くは続かず、天文8年(1539年)には家臣の三好長慶によって晴元は京を追われ、以降、長慶は畿内で勢力を伸ばし、天文16年(1547年)には芥川山城も長慶の手に落ちました。
長慶ははじめ、従兄弟の芥川孫十郎を城主にしますが、天文22年(1553年)、孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は、孫十郎を退去させ、その後、自身が入城。
この城を畿内統治の本拠とすると、摂津を中心として山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨にまで勢力圏を拡大していきます。
畿内一円を支配した長慶による政権を、その拠点となったここ芥川山城にちなんで、「芥川政権」と呼ぶこともあります。
山麓にあったものと同じ推定復元図の看板があります。
主郭には御殿が描かれていますが、発掘調査で礎石等が発見されたそうで、御殿のような立派な建物があったことは確認されているそうです。
主郭からの南の眺望です。
標高183mの主郭での昼食はコンビニ弁当です(笑)。
さて、主郭まで攻めてきましたが、まだ、全て攻略できていません。
「その4」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-07-05 00:10 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
最近、本当に余裕が無くてすみません。
いよいよ、畿内を制して四国征伐ですね。
天下統一楽しみにしております(笑)。