阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その1 <登山口~湧水>
先日の稿で紹介した勝瑞城跡から直線距離で12kmほど南西にある一宮城跡を訪れました。
ここも、勝瑞城跡と同じく平成29年(2017年)4月6日に日本城郭協会から発表された続日本100名城に選定された城です。
徳島県下ではこの2ヶ所が選ばれました。

一宮城は徳島市の南西部、鮎喰川右岸にある東竜王山系の尾根先端にある標高144.3mの山頂にあります。
登山口は、一宮神社と四国八十八箇所霊場の第十三番にあたる大日寺の近くにあります。
上の写真は徳島県道21号神山鮎喰線沿いにある石碑です。

その横にある説明看板。
一宮城の歴史は古く、延元3年/暦応元年(1338年)に阿波国守護の小笠原長房の孫の小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼしてこの地に築城したのがはじまりとされ、以後、小笠原氏は「一宮」の姓を使うようになり、天正7年(1579年)に長宗我部元親が侵攻するまで、240余年の長きに渡って一宮氏が代々居城としてきました。

県道から30mほど歩いたところに、登山口があります。



登山口にも、説明板や石碑が設置されています。
続日本100名城スタンプも、ここで押せます。

登り始めてしばらくは石段が整備されています。

何か看板が見えてきました。

「神宮寺跡」と刻まれた石碑の横に「経筒出土地」と書かれた説明板があります。
それによると、明治40年(1907年)に12世紀頃のものと推定される高さ33cm、口径12cmほどの銅製の経筒が出土したそうです。

さらに進みます。

「竪堀」と書かれた立札があります。

たしかに竪堀のように見えますが、草木に埋もれてイマイチ形状がつかめません。


竪堀の前が分かれ道になっていて、本丸とは反対側の北側に尾根伝いに進むと、出丸跡のような場所に出ます。

説明板には「倉庫跡」と書かれています。
一宮城には2ヶ所の倉庫跡が確認されているそうで、そのうちの1ヶ所がここ。
穀類や武器などを保管していた場所と考えられ、炭化麦が出土したそうです。

倉庫跡からの北東眺望。
徳島市街方面です。

倉庫跡を後にして本丸を目指します。
道脇には、石垣跡のような遺構が見られます。
石垣にしては、少し石が小さいようにも思えますが。

その石垣の上は、曲輪跡のようです。

曲輪跡です。

曲輪跡はけっこう広く、2段構造になっています。

段になっているのがわかるでしょうか?

下の段から見た曲輪跡です。

曲輪跡を出て、本丸に向かいます。
本丸まで残り300m。


手前の誘導板には、「倉庫跡・新正邸跡、天満谷越え」と書かれていましたが、どう見ても進むべき道がなく、険しそうなのでスルーしました。

突き当りには、「湧水」と書かれた説明板が設置されています。

一宮城には湧水が所々にあったそうで、飲料水を確保できたことで、長期の籠城が可能な城として長く使用されたのでしょう。

さて、ここを登れば本格的な城跡の遺構が始まるのですが、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-07-12 00:07 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
さすがに畿内は便利良いですよねぇ。
南紀に行くと思えば、かなりの所までいけますよね。うらやましい。