阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その2 <才蔵丸~明神丸>
「その1」の続きです。
一宮城の縄張りは大きく北城と南城に分かれていますが、その北城の東側にある才蔵丸と明神丸を分断する大堀切が下の写真です。

見事なV字です。
この左側が才蔵丸、右側が明神丸です。

その説明板。

反対側からみた堀切です。

堀切の南側に、才蔵丸に登る虎口があります。

入口に立つ石碑は「才蔵丸」ではなく「財蔵丸」と刻まれています。

才蔵丸跡です。

広い。

才蔵丸は一宮神社横の登城口から最初に到達する主要曲輪で、後世の呼び方でいえば三の丸にあたると考えられます。
曲輪の形態は自然地形に沿って不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。
標高は129.2m。

才蔵丸からの西側の眺望です。
正面奥の山が、徳島市街を望む眉山です。

さて、才蔵丸を出て西に進みます。
右は明神丸、左は竪堀となっています。

そして門跡。
5段ほどの石段跡があります。

石段を上がると、右が明神丸、左が本丸となっています。
まずは明神丸に向かいます。

明神丸虎口前の石碑。

そして、明神丸周辺の案内図です。
「その1」の最後に紹介したのが「湧水」と書かれたところ。
そこを上がって、本稿の最初に紹介したのが才蔵丸で、堀底を通って門跡を抜け、右に折れて明神丸に向かっています。

明神丸の虎口です。

明神丸跡です。
明神丸の標高は140.9mだそうで、本丸との高低差は3.4mしかなく、後世の呼び方でいえばニの丸にあたると考えられています。

南北朝時代、一宮城主の一宮(小笠原)長宗は南朝方に属していましたが、長宗の死後、息子の一宮成宗が北朝方の細川頼之との戦いに敗れたため、以後、一宮氏は北朝方に下り、細川氏の配下となります。
しかし、戦国時代に入って細川氏を追い落とした三好氏が阿波国の実験を握ると、姻戚関係を結ぶなどして三好氏に従うことになり、一宮成祐の時代には三好家臣団のなかでも重要な地位となっていました。
しかし、三好長治との間に不和が生じ、天正5年(1577年)の荒田野の戦いでは三好軍と敵対し、長治を討ったものの、孤立無援となって長宗我部元親の軍門に下ります。
天正10年(1582年)には長宗我部元親の配下として中富川の戦いの参戦し、元親の阿波国平定に貢献しますが、戦いが終わると、元親は一宮成祐が三好康長と通じていたとの理由をつけて殺害し、一宮氏を滅ぼします。
一宮城を手に入れた長宗我部氏は、南城に江村親俊、北城には谷忠澄を置いて城を守らせました。

明神丸からの北西の眺望です。
はるか遠くに見える平野が徳島市街です。
中央右側の山が眉山。

景色を堪能したのち、明神丸を出て本丸に向かいます。

本丸と明神丸の間は、長さ64m、幅13mの帯曲輪となっています。

そして帯曲輪を抜けると、ドドーンと本丸の石垣が現れます。
これはスゴイ!
じっくり見たいので、続きは「その3」にて。
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by sakanoueno-kumo | 2019-07-13 17:54 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)