阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その3 <本丸>
「その2」の続きです。
一宮城本丸跡まで登ってきました。
眼前に姿を見せた本丸石垣の迫力に圧倒されます。

一宮城本丸は標高約144.3mに位置し、ここだけ、総石垣造りとなっています。
石垣に沿っての本丸の大きさは、東北約36m、西北約23mの不等辺三角形で、石垣の高さは約5mあり、反りはほとんどありません。

虎口は東側の1ヶ所だけです。

とにかく本丸石垣の周囲を1周してみましょう。

虎口石段横の石垣。
櫓台のようにも見えます。
虎口には櫓門があったのかもしれません。

本丸東面から北面に向う細い犬走りのような道です。
鈍角に折を設けて横矢を効かせています。

虎口横の石垣と違って、このあたりは石垣が苔むしています。
たぶん、北東部分なので、陽があまり当たらないのでしょうね。

振り返ってみると、犬走りの向こうに石垣が突き出しているのが見えます。
あそこが、櫓台と思われる石垣です。

こちらは北面の石垣。
本当は北東出隅の石垣を写したかったのですが、通路が狭すぎて引きの写真が撮れませんでした。
写真左側がその出隅。
なんとなく、算木積みっぽい形状をしています。

反対側から見た北面石垣。

そして、こちらは本丸西面。
ここだけ、一部石垣が積まれていません。
崩れてしまったのでしょうか?

その向かい側(西側)には、「釜床跡」と書かれた石碑と説明板がありました。
いわゆる炊事場ですね。
あるいは、本丸西側の石垣がない部分には、この釜床跡につながる搦手口があったのかもしれません。

本丸南西の出隅石垣です。
なんとなく算木積みっぽい積み方です。

1周してきました。
では、本丸上に登ってみましょう。

本丸上です。

本丸には天守台がないので、天守が建っていたかどうかは不明ですが、本丸の南側に礎石跡が見つかっているそうで、天守に相当する何らかの建築物が建っていた可能性は高いようです。

天正13年(1585年)5月、一宮城は羽柴秀吉の四国攻めの主戦場のひとつとなりました。
秀吉は弟の羽柴秀長に6万の兵を与えて阿波国を攻めさせると、秀長はそのうち4万の兵でここ一宮城を包囲します。
対する長宗我部元親方の籠城兵は約1万。
この兵力差のなか城方はよく守りましたが、同年7月下旬に元親が降伏し、開城となりました。

その後、秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。
現在に残る石垣の遺構は、このときのものと考えられています。
本丸だけにしか石垣が積めなかったのは、予算の都合上だったのでしょうか?

本丸からの北側眺望です。
下に見えるのが鮎喰川。
その向こうの山が、標高197mの辰ヶ山です。
あの山に羽柴秀長軍が陣を布いたといわれています。

本丸の説明板です。
天正14年(1586年)7月、蜂須賀家政は新たに築いた徳島城に移り、一宮城は家臣の益田長行に守らせますが、その後、江戸幕府の一国一城令によって、寛永15年(1638年)に廃城となります。
このとき、石材の一部が徳島城に運ばれ、修築に使われたと言われています。

こちらは案内図です。
才蔵丸、明神丸、本丸が北城。
案内図で見る本丸より右上部分が南城になります。
「その4」では、南城を攻めます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-07-17 23:41 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)