阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その4 <小倉丸~椎の丸~下山道>
「その3」の続きです。
本丸を後にして、一宮城南側に向かいます。

一宮城の縄張りは大きく北城と南城に分かれていて、「その2」「その3」で紹介した才蔵丸、明神丸、本丸が北城、そして本稿で攻める曲輪が南城になります。

誘導板にある水手丸、小倉丸、椎丸が、南城の曲輪です。

しばらく歩くと、「投石用の石」と書かれた説明板と石がありました。
たしかに、投げやすそうな大きさの石ですが、これだけをもって「投石用」と断定できるのでしょうか?

「曲輪跡」と書かれた立札があります。
北城と南城の間にも、小さな曲輪がいくつかあります。

堀切跡。

そしてまた曲輪跡を横切り、南西に向かいます。

土橋のように見えます。

「小倉丸」と書かれた誘導板が出てきました。
行ってみましょう。

「土塁跡」と書かれた立札が見えます。

土塁の上に登ってきました。

小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪で、曲輪の西南は高さ2mの土塁がめぐっています。
土塁の長さは内側で58mあるそうです。

土塁の北西の突出した部分は、櫓台になっています。

ここがその櫓台。
現在、城跡の遺構をわかりやすくするために木を伐採している途中のようでした。

小倉丸を降りて、さらに西へ向かいます。
上の写真は、小倉丸西側の空堀です。

見事なV字型です。


道中、「竪堀」やら「土塁」といった立札が随所に見られましたが、いずれも草木に埋もれていて、イマイチわかりづらかった。

続いて、城跡最南西端にある椎丸にやってきました。

椎丸は、それほど面積は広くありません。

縄張り図によると、この椎丸の北側に水手丸があるのですが、その行き道が草木に埋もれてわかりませんでした。
なので、水手丸はスルーすることにしました。

椎丸から東に下った谷底に、貯水池と堤跡があります。
今は少ししか水が残っていませんが、往時は、長い籠城戦に耐えられるほどの水がここに確保されていたのでしょう。
上述した椎丸と水手丸は、この貯水池を守るための役割も果たしていたようです。

『伊藤文章』、『森古伝記』、『太閤記』、『異本阿波志』などの古記録には、羽柴秀吉の四国攻めで「水の手」にからむ攻防戦が行われたとの記載があります。
羽柴秀長率いる寄手は、この貯水池を奪って城を落とそうとし、そうはさせまいとする長宗我部元親の籠城軍と、ここで激しい攻防が繰り広げられたのかもしれません。

貯水池から下ったところには、「陰滝」と呼ばれる滝の跡があります。
説明板によると、この岩壁と周囲の曲輪によって、貯水池が守られていたようです。

さて、この陰滝を過ぎると、緩やかな下山道となり、攻城終了です。
登り始めてから約1時間半の攻城でした。
ちなみに、余談ですが、この日、本丸跡で地元の徳島新聞の記者さんから取材を受け、後日、その様子が新聞に載りました。
紙面を送っていただいたので、載せさせてもらいます。

氏名は伏せさせていただきますことをご容赦ください。
記者さんによって、「古城愛好家」という肩書をいただきました(笑)。
名刺作ろうかなあ(笑)。

最後に、続100名城のスタンプを載せます。
ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日だったのですが、スタンプはそれ以前に押していました。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2019-07-18 23:59 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
江川卓や大谷翔平みたいのが投げてくると思えば、近くからなら兜に当たっても脳しんとうだし、距離も100m以上投げると思えば、火縄銃より飛んだんじゃないですか?
たしかに。
火縄銃は1発撃つのに30秒以上かかったといいますが、投石だと間断なく攻撃できますもんね。
昔、甲子園出場投手と雪国に旅行したとき雪合戦をしたことがありますが、速すぎて避けれませんでした(笑)。
大谷くんが戦国時代にいたら、強肩だけで出世できたかも(笑)。