人気ブログランキング | 話題のタグを見る

いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その2 ~五・一五事件~

 「その1」の続きです。

 柳条湖事件発生時、日本の総理大臣は若槻禮次郎でした。若槻内閣は閣議で騒ぎを大きくせずに収取する不拡大方針を取りますが、これに軍部が抵抗し、若槻の制止を振り切って戦線を拡大します。さらには、閣内からも軍部支持の声があがり、閣僚からも見放されたかたちで総辞職に追い込まれます。もはやシビリアン・コントロールが機能していなかったことがわかります。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その2 ~五・一五事件~_e0158128_19300703.jpg そのあとを引き継いだのが、犬養毅でした。犬養内閣は基本的には満州国の建国には反対の立場でしたが、引くところは引いて軍部との調和を図り、決して軍部との関係は悪くはありませんでした。しかし、昭和7年(1932年)5月15日、海軍青年将校によるテロ事件によって暗殺されてしまいます。世にいう「五・一五事件」です。


 この事件の背景は、昭和5年(1930年)に濱口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにありました。この条約によって主力艦建造停止が延長され、英・米・日補助艦総保有量10:10:7となりました。この条約に不満を持った青年将校たちは、時の政府要人たちを殺害して軍部を中心とした政府をつくろうと画策します。犬養は政友会総裁であり、軍人たちにとっては、軍部の思いどおりにならない政党政治邪魔な存在だったわけです。


 事件当日は日曜日で、犬養は首相官邸にいました。襲撃犯たちは靖国神社に集合し、午後5時頃に官邸に乗り込み、犬養と面談します。犬養は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを話し始めましたが、「話せばわかる」という犬養に対して、「問答無用!」と叫んでズドン!・・・というのは有名な話ですね。犬養は頭部左側に銃弾を受けるも即死には至らず、駆けつけた女中に「いま撃った若者をもう一度連れてこい。よく話して聞かすから。」と語ったといいます。これも、ドラマで描かれていましたね。その後、犬養は次第に衰弱し、深夜になって死亡しました。


 殺されたのは犬養首相ひとりでしたが、襲われたのは、元老・西園寺公望、内大臣・牧野伸顕、侍従長・鈴木貫太郎ら天皇の側近三人で、また、警視庁、変電所、三菱銀行なども襲撃されましたが、いずれも被害は軽微でした。事件後、襲撃犯たちは自首しますが、どういうわけか彼らは当時の国民から人気があり、助命嘆願運動が各地で起こります。また、本来なら軍法会議にかけて厳重に処分しなければならないはずの軍部も、なぜか彼らに同情的で、それがまた、政府批判の世論を煽りました。そんな世論が加味されてか、のちに行われた裁判で、当初は死刑が求刑されましたが、結局、首謀者が禁固10年~15年、その他参加者は禁固4年という軽い刑で終わります。一国の首相を殺したのに・・・です。この甘い判決が、のちの二・二六事件につながったと考えても的外れではないでしょう。


 この五・一五事件によって、犬養が総裁を務める政友会は潰され、その後、海軍大将斎藤実総理大臣になります。犬養内閣は閣僚も政友会で固めた政党内閣で、日本は明治31年(1898年)の第一次大隈重信内閣以来30年以上、政党内閣できたのですが、五・一五事件によって政党政治は完全に息の根を止められてしまいました。斎藤内閣は「挙国一致内閣」といって、政党にこだわらず幅広く人材を集めた内閣をいいます。こうして、政府は軍部寄りになっていきました。ここから、軍の力が政治や言論を支配する、一種の恐怖時代に突入していきます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-07-30 23:11 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

<< 海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩... いだてん~東京オリムピック噺~... >>