海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その4 <水門、鉄門、二ノ丸>
「その3」の続きです。
高松城三ノ丸北側通路を西へ戻ります。
下の写真は、三ノ丸と二ノ丸の間の内濠です。
向こうに見えるのは二ノ丸の石垣。

前稿でも述べましたが、ここ高松城は、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。
この三ノ丸と二ノ丸の間の内濠は、北側の海とつながっていました。
ここが、海と濠をつなぐ水門となっています。

水門です。
現在は水位調整するために開閉できるようになっていますが、往時はどのように水位調整していたかはわかっていません。
海水を引き入れた濠をもつ城は他にもありますが、100%海水というのは、ここ讃岐高松城だけだそうです。

北側から見た内濠です。
向こうに見えるのは天守台石垣。

水門の横には、「高松藩松平家の泳法」と書かれた説明板があります。
生駒氏に代わって寛永19年(1642年)に入城した初代藩主の松平頼重は、「讃岐の国は、海辺の国なれば、水練は武道の一班たるべし」と、翌29年夏、藩士の今泉八郎左衛門盛行に命じ、お船蔵西の堀溜にて藩士に水練の指導をさせたとあります。
頼重自身も、入封の年の6月に城内の濠で泳いだという記録が残されているのだとか。

また、前稿で紹介した水手御門の側にも「高松藩松平家の泳法」と書かれた説明板があり、それによると、「高松藩中興の祖」と呼ばれるほどの名君として伝わる5代藩主の松平頼恭は、幼少の頃より武芸全般に秀でていたそうで、特に水泳を好み、小姓たちを従えて水手御門より西まで往復二百間(約360m)を左下の片熨斗(水任流の左片熨斗)で泳いだという記録があるそうです。

水門の西には、鉄門跡があります。

鉄門は三ノ丸と二ノ丸をつなぐ門で、その名の通り、往時には鉄板張りの門がありました。

二ノ丸側から見た鉄門跡です。

二ノ丸です。
向こうに見えるのが鉄門跡。

こちらは、二ノ丸と本丸を結ぶ唯一の連絡橋、鞘橋です。
この橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていたんですね。

絵図などの史料によれば、築城当初からこの位置に橋がかけられていたことがわかるそうで、当初は「欄干橋」と呼ばれる屋根のない橋だったようですが、文政6年(1823年)の絵図には屋根付きの橋が描かれているそうで、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。

現在の鞘橋は明治17年(1884年)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっているそうで、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真で判明しているそうです。

鞘橋から見た西側の内濠です。
正面に見えるのは、琴電琴平駅。
左側が本丸で右側が二ノ丸です。

本丸石垣は野面積みと打込み接ぎの混在のように見えます。

鞘橋から北西を見ると、「その2」で紹介した披雲閣庭園が見えます。

そして南西に目をやると、天守台石垣が。
「その5」では、その天守台に向かいます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-08-07 00:23 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)