海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その6 <外周、東の丸>
「その5」の続きです。
城跡公園の外に出てみましょう。

写真は公園西入口です。
石垣の造りなどから見て、往時も何らかの門があったのでししょうが、説明書きなどがなかったため、詳細はわかりません。

入口の右側(南側)の石垣が突起している部分には、かつて弼櫓があったそうです。

入口横には「玉藻公園」と刻まれた大きな石碑があります。
讃岐高松城は、別名、「玉藻城」ともいいます。
その由来は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから、この辺りの海域を「玉藻の浦」と呼んでいたからだそうです。

北西隅の簾櫓跡石垣です。

公園北側の石垣です。
現在は東西に道路が走って歩道整備されていますが、往時は石垣の外は海でした。
向こうに、「その3」で紹介した月見櫓、水手御門、渡櫓が見えます。

西側を振り返ると、ホテルクレメント高松が見えます。

さらに東に進んでもう一度振り向くと、月見櫓とホテルクレメント高松のミスマッチ。

北側に目をやると、海沿いに報時鐘が見えます。

報時鐘とは、読んで字のごとく時を知らせる鐘楼。
昭和55年(1980年)の再建です。

さらに東に進むと、香川県県民ホールの敷地内に入るのですが、石垣たけはずっとつながっています。

生駒氏に代わって寛永19年(1642年)に入城した初代藩主の松平頼重は、長い年月をかけて大規模な城の改修工事を行いました。
その際、縄張りを北方と東方に拡張し、新たに「東の丸」を設けました。

現在、その東の丸があった場所には県民ホールが建てられていますが、石垣の遺構だけは、このようにホール敷地内に残されています。

写真は「その1」で紹介した艮櫓がかつて乗っかっていた櫓台石垣です。

丑寅(艮)とは北東の方角を指す言葉です。
ここが城の北東隅だったことがわかりますね。
延宝5年(1677年)築と伝わる艮櫓は、昭和40年(1965年)に当時の所有者であった旧国鉄から高松市が譲り受け、2年の歳月をかけて東の丸より旧太鼓櫓跡に移設されました。


説明書きの陶板が埋め込まれた石碑があります。

石垣は艮櫓から更に南へ伸びています。

石垣は艮櫓から60mほど南下した場所で終わっています。
ここで県民ホールの敷地が終わりなので、ここまでしか残せなかったのでしょうね。

石垣の内側です。

その南にある松平公益会の敷地内には、土塁跡と思われる遺構が残されています。

その柵の前には、東の丸の説明板が。

で、「その1」で紹介した東側の中濠に戻ってきました。
写真左側に見えるのが、艮櫓と旭橋です。
6回に渡って巡ってきた讃岐高松城逍遥ですが、歩き疲れました。
そろそろ、讃岐うどん食べて帰ります。

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by sakanoueno-kumo | 2019-08-09 01:01 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)