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いだてん~東京オリムピック噺~ 第30話「黄金狂時代」 ~実感放送~

 昭和7年(1932年)夏の第10回ロサンゼルスオリンピックに、日本はこれまで最も多い131名の出場選手を送り込みましたが、そのなかでも田畑政治総監督とする日本競泳陣の活躍は凄まじく、男子競泳6種目中5種目で金メダルを獲得します。とくに背泳ぎでは金銀銅すべてを日本人選手が獲得し、表彰台を独占しました。唯一金メダルを逃した400m自由形の大横田勉選手も銅メダル(競技前に胃腸炎を患っていたというのは実話のようです)。まさに、「水泳王国ニッポン」の異名が世界に轟いた大会だったといっていいでしょう。


 そんな現地の興奮を本国に伝えたのが、ドラマで描かれていた「実感放送」でした。当初、日本はこの大会で初めてのラジオ実況放送を計画していました。アメリカとの交渉でその許可も得ていたそうですが、ところが、直前になって放送が不可となってしまいます。その理由は、「開催国アメリカの国内放送も許可していないのに、外国である日本の実況放送は認められない」というものだったとか。では、なぜアメリカでも国内放送しなかったかというと、ラジオで放送すると、現地での観戦客の客足が遠のくという考えからだったようです。


これとよく似た話は日本にもあて、テレビ放送の草創期にも、プロ野球の実況放送を始めようとする計画が上がったのに対し、当初は、球場への客足が遠のくとして反対の声が多かったといいますし、今お騒がせの吉本興さんでも、芸人さんのラジオ出演を寄席に客が来なくなるという理由から拒んでいたといいます。しかし、実際には、それらのメディアを通すことによって、広く大衆の認知度が高まり、集客を大いに高める効果があるわけですが、まだこの当時は、ラジオの宣伝効果というものがそれほど理解されていなかったということでしょうね。


e0158128_11335181.jpg とにかく、競技の実況放送ができなくなりました。そこで、苦肉の策として行われたのが、競技を観戦したアナウンサーがその場でメモを取り、そこから車で15分ほどのところにあるスタジオに移動してから、あたかも実況しているように実感を込めて伝えるという方法。文字どおり「実感放送」だったわけです。放送時間は現地時間の午後7時から8時まで、日本時間は翌日の正午から午後1時までとなります。ちょうど昼休みの時間帯ということもあって、多くの国民がラジオに耳を傾けました。100メートル自由形で金メダルを獲った宮崎康二選手の決勝の実況の様子は、以下のようなものでした。


 各選手スタートラインに立ちました。さすがに場内は水を打ったような静けさになりました。ドンと号砲一発、場内は総立ちです。60m、宮崎、河石、高橋、グングン出てきました。そして6名並行しております。70m、宮崎グングン出てきました。半メートルも引き離しております。河石、シュワルツが続いております。80m、宮崎トップです。


 また、「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳選手の出場した陸上男子100m決勝では、実際には10秒ちょっとのレースにもかかわらず、実感を込めすぎて1分以上の時間がかかっていたというエピソードもあります。こうした放送が実況放送でないことは、事前に日本の聴取者にも知らされていました。しかし、それでも、日本国民はラジオの前に釘づけでこの放送を聴いたといいます。ロス五輪中盤の8月6日、アナウンサーは実況放送ではなく実感放送となってしまったことの詳しい経緯を説明したのち、最後にこう付け加えました。


 然し皆さん、世界数十ヵ国参加のオリンピック大会の情況を、たとえスタジオからの実感放送とは云え、外国語を以て放送しているのは僅かに日本一国あるのみです。あるロサンゼルスの在留邦人は、日本の同胞諸君は何という仕合せであろう。競技後一時間余りでラジオに依り詳細な結果を知る事が出来るのですもの、と語っておりました。


 この実感放送は、その後、放送史上の一種の“伝説”となって語り継がれているそうです。

 


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by sakanoueno-kumo | 2019-08-13 11:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

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