平成最後の築城、145年ぶりに甦った尼崎城天守。
令和の幕が開ける1ヶ月ほど前の平成31年(2019年)3月29日、兵庫県尼崎市に2年間の建設工事をかけて完成した尼崎城の復興天守がグランドオープンしました。
まさに、平成最後の築城です。

この天守は、家電量販店ミドリ電化(現・エディオン)創業者の安保詮氏が、「創業の地に恩返しがしたい」という意向で私財12億円を投じて再建を構想し、さらに市民らからも2億円近い寄付が集まって再建されたものです。
平成30年(2018年)11月30日に竣工すると、尼崎市に寄贈されました。

尼崎城は元和3年(1617年)に徳川家の譜代大名、戸田氏鉄によって築城され、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊されるまで、250年以上、幕府の西国支配の拠点となった城です。

尼崎城公園の北側には、その築城主の戸田氏鉄の顕彰碑が建てられています。

そこには、往時の尼崎城の絵図も。

かつて尼崎城があった場所は、現在は市街地となっていて、往時をしのぶ遺構はほとんど残っていません。
このたび天守が建てられた場所も、かつて天守があった場所より300mほど北に築かれました。
実際の場所には、現在、小学校があります。

北側の門から城跡公園に入ります。

天守北側です。
高さは約24mあるそうです。

鉄筋コンクリート造ですが、一応、外観は古写真を元に造られました。

ただ、左右を反転して附櫓の配置も変えちゃってるそうです。
理由は、「城らしさ」を演出するためということだそうですが、せっかく古写真が残っているんだから、忠実に再現してほしかったと思ってしまうのですが・・・。

出来たばかりなので、濠の水がまだ澄んでいます。

城の南側にやって来ました。

わたしがここを訪れたのは、令和元年(2019年)5月25日。
グランドオープンしてからしばらくは、イベントが目白押しといった感じだったので、純粋に天守を見たいわたしとしては、熱りが冷めてから訪れようと思い、オープンから2ヶ月経ったこの日に満を持して訪れたのですが、まだ何かイベントをやってました。

人がうじゃうじゃいて、天守の写真がうまく撮れません。
もう少し待てばよかった。

日本各地の城跡に天守がありますが、そのほとんどが再建であることは周知のところだと思います。
江戸時代の城がそのまま残る「現存天守」は、世界遺産の姫路城をはじめ全国に12天守しかありません。
そのほかはすべて昭和以降に再建されたものですが、その中でも、「復元天守」「復興天守」「模擬天守」といった名称に分類されます。

まず「復元天守」は、古写真や図面などの史料に基づいて、往時の天守を忠実に再現したもののことを言います。
その中でも、材料や工法もできるだけ忠実に、外観だけでなく内部の構造も再現したものを「木造復元天守」といい、これは、大洲城や白河小峰城など、少ししかありません。
一方で、鉄筋コンクリート造などの近代の工法を用い、外観のみ忠実に再現したものを「外観復元天守」と呼びます。
名古屋城、岡山城などが該当します。

次に、「復興天守」と呼ばれるものは、かつて天守はあったものの、その史料が乏しく、実際にあったものとはちょっと違う再建となった天守を言います。
大坂城や小田原城がそうですね。

最後に、「模擬天守」と呼ばれるものは、実際には天守がなかったはずの城にほかの城を参考にして天守を建てたもの。あるいは、天守が存在したけれど、実際の天守とは全く違うものを建ててしまったものなどをいいます。
岐阜城などがこれにあたります。

では、尼崎城はどれにあたるか・・・。
一応、古写真などの史料をベースに再建されたものですが、実際にあった場所とは違うこと、また、上述したとおり左右反転したり附城の位置を変えたりしていることから、「復興天守」に該当します。
新聞やニュースなどでも、安直に「復元」といった言葉を使ってたりしましたが、実は「復元」ではないんですね。

かつて天守があったとされる明城小学校の校庭のフェンス沿いには、明治21年(1888年)に建てられた石碑があります。



明城小学校の住所に、かつてここが城の敷地内だったことの名残を見ることができます。

尼崎城を築城した戸田氏鉄は寛永12年(1635年)に美濃国大垣藩へ転封となったため、戸田氏の城主は1代限りでしたが、その後、入部した青山幸成から青山氏が4代城主を務め、その後は桜井松平氏が廃藩置県まで7代城主を務めました。
戸田氏、青山氏、桜井松平氏、いずれも徳川家譜代大名です。
また、江戸時代を通して、兵庫県下で天守が許されていたのは姫路城と尼崎城の2城だけです。
わずか5万石しかない尼崎藩を、幕府がいかに重要視していたかが窺えますね。

また、尼崎城が築かれる以前、この付近には尼崎古城(大物城)がありました。
織田信長に反旗を翻した荒木村重が籠もった城です。
尼崎古城を包囲した信長は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、村重の家臣の妻子122人を磔の上、長刀によって処刑し、その他510余名の小者や女中たちも、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込め、家もろとも焼き殺したといいます。
そのときのことは、5年前にここを訪れたときに起稿していますので、よければ一読ください(参照:荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~)。
5年前には、まさか尼崎城の天守が再建されるとは、思いもしませんでした。

最後に、尼崎城築城記念マグネットとコースターです。
平成最後の築城なのに、「令和」とはこれ如何に?
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2019-08-15 12:54 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)