築城400周年の明石城を歩く。 その2 <太鼓門、三ノ丸>
「その1」の続きです。
明石城中濠南側中央の太鼓門から城内に入ります。
太鼓門は現在、JR明石駅のすぐ北側にあり、明石公園の正門となっています。
向こうに見えるのは本丸の坤櫓と巽櫓です。
いずれも現存櫓で、国の重要文化財に指定されています。
数年前に来たときは、太鼓門正面の石垣の上に木が茂っていたので、ここから坤櫓と巽櫓は見えなかったのですが、今はその木がなくなっていて、見えるようになっていました。
これも、築城400年事業の整備の一貫でしょうか?
太鼓門は大手筋にあたりますが、大手門はここより300mほど南の外濠に面してありました。
往時はここに長さ十一間(約20m)、幅三間(約5.5m)の木橋が架かっていたそうで、「太鼓門橋」と呼ばれていたそうです。
橋を渡った先には、正面に「定ノ門」と呼ばれる高麗門(一の門)がありました。
その城門をくぐると、五間に八間の枡形虎口になっていました。
これは、今も遺構を残しています。
太鼓門の石垣裏の雁木です。
枡形虎口を過ぎると、かつての三ノ丸に繋がります。
往時は、ここに更に内濠があり、そのなかに居屋敷(下屋敷)があったとされています。
目の前に坤櫓と巽櫓がそびえます。
現在、三ノ丸の一部は芝生広場になっています。
この芝生広場から西側の明石球場にかけてが、往時の居屋敷郭でした。
明石城のいちばんの見どころは、なんといってもこの坤櫓と巽櫓というふたつの現存櫓でしょう。
このふたつの櫓の下の高石垣は、高さ20m、東西幅380mあります。
このふたつの櫓は、元和5年(1619年)の築城当時のものではなく、寛永8年(1631年)の火災後に再建されたものだそうです。
明治に入ってからも、このふたつの櫓以外にもうひとつ乾櫓が残っていましたが、明治34年(1901年)の修理に際して乾櫓は解体撤去され、状態のよい木材や瓦の一部が巽櫓と坤櫓の補修材として転用されたそうです。
平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により、両櫓とも傾いて石垣も広範囲にわたって崩落しましたが、その後、いったん両櫓を曳家(建物を解体しないで、そのまま移動する建築工法)して石垣を積み直し、櫓も修復され、平成12年(2000年)にその雄姿が蘇りました。
このとき、両櫓をつなぐ土塀も、約100年ぶりに復元されました。
坤櫓は明石城内で最大規模の3重櫓で、天守が築かれなかった明石城の天守代用として使われました。
櫓の大きさは、桁行六間(19.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)あります。
伏見城から移築されたといわれています。
もう少し近づいて、坤櫓を見上げます。
数年前までは、もっと木が覆い茂っていて、このように石垣は露出していませんでした。
こちらは巽櫓です。
巽櫓は本丸の南東端に築かれた3重櫓で、その大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)あり、坤櫓より少し小ぶりです。
同じ明石にあった船上城から移築されたと伝わっており、一説には、船上城の天守だったとも言われています。
三ノ丸東側には、三ノ丸庭園が復元されています。
説明板には、「武蔵の庭園」とあります。
武蔵とは、あの剣豪・宮本武蔵のことです。
築城当時、小笠原忠真の客分として姫路にいた宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。
享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。
三ノ丸だけでめっちゃ長くなっちゃいました。
「その3」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-08-22 23:23 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)