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緒方洪庵の適塾をたずねて。 <前編>

大阪市内のオフィス街のど真ん中に、緒方洪庵が開いた適塾(適々斎塾)の建物が残されています。

緒方洪庵は、幕末における洋楽研究の第一人者として仰がれた医師、蘭学者で、「日本の近代医学の祖」と呼ばれる人物です。

洪庵は、天保9年(1838年)から文久2年(1862年)までの25年間、大阪・船場で塾を開き、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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この建物は、弘化2年(1845年)に洪庵が町家を買い受け、適塾を拡張したときのものです。


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間口は約12mしかありませんが、奥行きは約40mあり、敷地面積は464㎡あり、木造2階建の建面積は285㎡、延床面積は417㎡あります。


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正面には昭和16年(1941年)に建てられた石碑があります。


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入口横の説明板です。


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玄関を入ってすぐの土間に、平面図が書かれた行灯看板があります。


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それでは、建物の中を見てまわりましょう。


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1階は主に教室に使われた表屋と、洪庵とその家族の住まいとなっていた主屋に分かれます。

教室は2部屋あります。


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教室の奥には、中庭があります。

この中庭より奥が、洪庵の居住スペースとなります。


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書斎です。

六畳間です。


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手前が八畳の応接間で、奥が十畳半+床の間の客座敷です。


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客座敷です。

奥に庭が見えます。


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前栽(庭)です。


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こちらは、客座敷の隣にある家族部屋です。

七畳ありますが、洪庵は6男7女の子供がいました。

まさか、ここで全員寝てたわけではないですよね。


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そして台所


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ここで塾生たちの飯を炊いていたのでしょう。


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台所の天井です。

煤けていますね。

150年以上前の煤でしょうか?


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台所から2階へ上がる階段があります。

この急な角度、階段というより梯子のようです。

でも、昭和の時代も、古い家屋はみな、こんな急な階段でしたよね。


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2階へやってきました。

上ってすぐにあるのは、女中部屋です。


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そしてこの六畳間は、ヅーフ部屋と呼ばれる部屋です。

その名称の由来は、塾生たちが使用したヅーフ辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが作成した蘭和辞書)だそうです。

適塾の教育システムの中心は蘭書の会読だったといいますが、その予習のために塾生たちはこのヅーフ辞書を使ったそうですが、当時、極めて貴重だったこの辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ辞書が置かれていたこの部屋につめかけて奪い合って使用したといいます。


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そして、その奥にある大広間が、塾生大部屋です。


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洪庵は医学者でしたが、適塾門下生からは、医学のみならず様々な方面で活躍する人物が出ました。

もとは医学者でありながら、やがて幕末の政治活動に身を捧げて死んでいった橋本左内や、同じく医学者から兵学者に転身して維新十傑の一人となった大村益次郎、維新後、慶応義塾大学を創設した福沢諭吉、同じく維新後、内務省の初代衛生局長となった長與專齋などがいました。


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また、戊辰戦争で新政府軍に抗い、あの五稜郭に立て籠った大鳥圭介高松凌雲も適塾門下生で、大鳥はのちに明治の外交で活躍し、高松は五稜郭の戦いで箱館病院を開院し、敵味方を問わずに傷病兵を助けるという我が国最初の赤十字博愛精神を実践した人物で、これがやがて日本赤十字を生むことになり、その初代総裁には、同じく適塾門下生だった佐野常民が就きました。

まさに、幕末維新の錚々たるメンバーがここから巣立ったんですね。


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この大部屋で、門下生たちは寝泊まりしていました。

塾生1人一畳が使えましたが、毎月、成績のいい者から好きな場所を選べたようです。

出入口付近はみんなに踏まれて最悪だったとか。

福沢諭吉なんかは、きっと常にいい場所を確保していたんでしょうね。

福沢諭吉は後年、適塾時代を振り返り、「およそ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強した」と述懐しています。

その理由は、向上心よりも、場所取りだったかも(笑)。


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大部屋中央の柱には、塾生がつけたと伝わる刀傷が無数に残っています。

秀才ぞろいの適塾でしたが、やはり武士の若者たちですから、血の気の多いやつもたくさんいたんでしょうね。


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さて、ひととおり建物内を見て回りましたが、次回、建物の外を歩きます。

<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-13 23:27 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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