天誅組の足跡を訪ねて。 その1 「堺旧港」
幕末には、新選組、見廻組、誠忠組、新徴組など、「○○組」と称する団体がいくつかありましたが、その性格は様々で、警備組織もあれば政党もあり、武装集団もあれば思想集団もありました。
そんななか、政党であり思想集団であり武装集団でもあるという複数の性格を持ちながら、最も短命に終わった組織がありました。
天誅組です。
彼らは、幕末史のなかのわずか1ヶ月ほどの短い間に、一瞬の花火のように炸裂して散っていきます。
そんな天誅組の足跡を辿ってみました。
嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、活発化していった尊皇攘夷運動は、文久3年(1863年)の前半期には最高潮に達し、その急先鋒の長州藩士をはじめとする全国各地から集結した尊皇攘夷派が、京の政局を握っていました。
彼らは孝明天皇(第121代天皇)を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。
これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。
そして、文久3年8月13日(1863年9月25日)、天皇の大和行幸が正式に朝議で決まると、機をうかがっていた討幕急進派の公家の中山忠光、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎、岡山脱藩浪士の藤本鉄石、刈谷脱藩浪士の松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、翌14日に京都を発ち、大和国を目指します。
これが天誅組です。
天誅組の面々は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路で堺へ向かいます。
そして15日、堺港に上陸しました。
現在、その上陸の地を示す石碑が、堺市内に建てられています。
手前の小さな石碑には、「天誅組義士上陸蹟」と刻まれています。
後ろには大きな顕彰碑が。
昭和11年(1936年)に建てられたものだそうで、扁額は伯爵・田中光顕の揮毫だそうです。
田中は土佐勤王党出身で、あの坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された現場に最初に駆けつけた人物です。
天誅組には土佐勤皇党の同志が大勢参加していましたから、田中が揮毫したのでしょうね。
幕末の土佐系の石碑の建立事業には、だいたい田中が関わっています。
真夜中過ぎに堺港へ到着した天誅組は、旭橋東詰から上陸すると2軒の旅館に分かれて休息し、朝、狭山へ向かって西高野街道を進軍したとあります。
天誅組上陸地碑の隣には、慶応4年2月15日(1868年3月8日)に起きた堺事件発祥地碑が並んで建ちます。
堺事件とは、この地に上陸したフランス軍艦の兵士11名を、当時、堺の警護にあたっていた土佐藩士が殺傷するという事件で、フランス政府からの要求で、土佐藩士11名が切腹しました。
この話は、また別の機会に触れることにしましょう。
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by sakanoueno-kumo | 2019-09-18 02:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)