天誅組の足跡を訪ねて。 その4 「油屋本陣蹟」
文久3年8月16日(1863年9月28日)の夜に狭山を出発した天誅組一行は、翌17日未明、高野街道の三日市宿で休息を取ります。
このとき主将の中山忠光が泊まったと伝わる旅籠・油屋の跡地には、現在、「油屋本陣天誅組史跡」と刻まれた石碑と、門構えを演出したモニュメントが設置されています。
三日市町は大阪と高野山のちょうど中間地点に位置します。
昔の旅人は1日に8里(約32km)ほど歩いたといいますが、大阪から高野山の間がおよそ16里で、その中間地点の三日市が、朝、大阪を出発して夕方頃に着く場所だったため、古くから宿場町として栄えました。
なかでも「油屋」は、江戸時代、本業は菜種油の製造・販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠として有名だったそうです。
ここが天誅組の宿場となったのは、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、油屋の主人、油屋庄兵衛と親交があったためと伝わります。
ここ油屋に中山忠光をはじめ幹部たちが泊まり、残りの浪士や人足たちは、脇陣の菊屋や鍋屋などで休息をとりました。
モニュメントの説明書きによると、このとき当主の油屋庄兵衛は、三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配などの世話をしたと伝えられているそうです。
油屋本陣跡前の旧高野街道沿いには、いまも当時を偲ばせる古い家屋がいくつか建ち並びます。
「三田市宿」再生しましょう・・・だそうです。
三日市駅前には、石碑や説明板などが設置されています。
その一角には、今年(2018年)に設置されたばかりの楠木正成像が。
石像は、当時は多聞丸という名だった少年・正成に兵学を教える大江時親の姿です。
彼ら天誅組がこのコースを選んだのは、勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成ゆかりの地を通って士気を高める狙いだったといいます。
夜が明けて三日市を発った一行は、楠木正成ゆかりの観心寺に向かいます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-09-25 00:34 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)