天誅組の足跡を訪ねて。 その7 「岡八幡宮」
文久3年8月17日(1863年9月29日)、国境の千早峠を越えて大和国に入った天誅組一行は、昼過ぎ、五條北方にある岡八幡宮で休息しました。
このとき天誅組は100人以上に膨れ上がっていたといいます。
鳥居の横には、天誅組を紹介する看板が設置されていました。
馬上は主将の中山忠光。
このとき若干19歳です。
この人の姉が明治天皇の生母なので、明治天皇の叔父にあたります。
薄化粧を施し、緋絨の鎧に鍬形を打った兜をつけ、馬に乗った忠光の姿を見た何も知らない地元民たちは、役者の顔見世かと思ったという伝承が残っているそうです。
鳥居の奥には割拝殿があります。
割拝殿の奥にも鳥居があり、その向こうに本殿があります。
中央に祀られているのが品陀和気命、右が天照大神、左が春日大神です。
かなり傷んでいます。
境内には、かつてあった御神木の切り株が屋根に守られて鎮座しています。
説明板によると、御神木は本能寺の変があった天正10年(1582年)に植えられものと想定されていたそうですが、枯れてきたために昭和49年(1974年)に伐採したそうです。
かつては幹の直径が約2m、高さは30mに及ぶ巨木で、4m上で二又に別れ、地元では夫婦杉と称されてその威容を誇っていたそうです。
天誅組一行も、この巨木を見上げて勝利を誓ったかもしれません。
切り株の根本に建てられた駒札にも、天誅組の説明が。
こちらにも説明板があります。
境内東側の広場です。
ここに一行が集結したのでしょうか?
天誅組の面々はここで隣の窪田家から湯茶の接待を受けたといわれています。
北を見れば、金剛山が聳えます。
一行はあの千早峠を超えてやってきました。
南には、五條の街が見下ろせます。
ひとときの休息を終えた天誅組一行は、陣形を整え、午後3時頃に代官所をめざして丘を駆け下って行きました。
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by sakanoueno-kumo | 2019-10-02 00:13 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(2)
ご無沙汰しております。
コメントありがとうございます。
まさしく、貴女から栄山寺を教えていただいて訪れた際、ついでに五條市内で櫻井寺に立ち寄ったところ、そこが天誅組本陣となっていたということを知り、幕末史が好きな私としては、天誅組史跡をめぐってみようと思い至った次第です。
このシリーズは貴女のおかげです(笑)。
>実家も天誅組から檄文を受け取りました
>その檄文はまだ母の手元にあります
それ、すごいですね。
歴史家の方々が知れば、よだれものなんじゃないですか?
>参加しませんでした(笑)。
ご先祖様は賢明だったと思います(笑)。
五條市を訪れた際、天誅組を「維新の魁」とかいって美化した看板などを見かけましたが、わたしは、天誅組は単なるテロ集団だと思っています。
そのあたりは、シリーズを通してぼちぼちお話していこうかな、と。
記事は読んでいただいているとのこと。
恐悦至極です。
今後とも宜しくお願いします。