天誅組の足跡を訪ねて。 その10 「五條代官 鈴木源内墓所」
天誅組の五條代官所襲撃によって殺害された代官・鈴木正信(源内)の墓所が、五條代官所跡の石碑から北東200mほどのところにあります。

墓は地元の人たちの墓地のなかにひっそりとあります。
その参道には、「鈴木源内外五士之墓」と刻まれた石碑があります。

こちらがその墓です。

文久3年8月17日(1863年9月29日)の五條代官所襲撃で殺されたのは、代官の鈴木源内をはじめ、役人の、長谷川岱祐、伊東敬吾、黒澤儀助、そして不運にもそこに居合わせた按摩師の嘉吉も巻き沿いになります。
また、後日、同じく役人の木村祐次郎、高橋勇蔵も落命します。
墓石は5基ですが、葬られているのは鈴木、長谷川、高橋、木村の4基と、伊東と黒澤が合祀された1基です。
嘉吉はここには葬られていません。

代官の鈴木源内は700石の旗本で、前年に江戸から赴任してきたばかりでした。
温厚篤実な人物で、長寿の老人を表彰するなどして領民から慕われていたと伝わります。
幕府は、天領に対しては儒教風な善政主義をとり、代官を選任するときは、直参のなかから学識温で無欲な者を選びました。
由来、天領は大名への模範となる清廉な人物を任用したので、代官の中から汚職などの貪官汚吏が発生したことはほとんどなかったといいます。
いわゆる「悪代官」というのは、幕府直轄地にはほとんどいなかったようですね。
鈴木代官は、そういう幕府の考えを絵に描いたような代官で、善政への意欲が強く、殺される理由などどこにもありませんでした。

中央のいちばん大きな墓石が鈴木源内の墓です。

その左横が高橋勇蔵の墓。

右横が長谷川泰助の墓。

左出前が黒崎儀助と伊東敬吾が合祀された墓。

そして右手前が木村祐次郎の墓。
木村は、司馬遼太郎の短編『五条陣屋』で主人公のひとりとして描かれた人物です。
彼ら6人の首は、五条の須恵の道端に晒され、捨て札が立てられました。
捨て札に書かれた罰文は、司馬氏の『五条陣屋』のものを引用します。
「この者ども、近来違勅の幕府の意を受け、もっぱら有志(志士)の者を押えつけ、幕府を朝廷同様に心得、わずか三百年来の恩義を唱え、開闢以来の天恩を忘却し、これがため皇国を辱かしめ、夷荻の助けと成り侯事もわきまえず、かつ収斂の筋もすくなからず、罪重大、よって天誅を加える者也」
上記は司馬さんの創作ですが、おそらく似たようなものだったでしょう。
皇国を辱かしめたのは、どっちでしょうね。

これらの墓は事件終息後、地元の人々が資金を出し合って建立したそうです。
幕府直轄地の役人だったという、ただそれだけで殺された5人。
維新後、天誅組の面々にことごとく位階が贈られ、靖国神社に祀られたのに対して、ひっそりと五條の領民たちとともに眠る6人。
いかに靖国神社というところが、維新後の薩長史観によって利用された偏った政治的神社であるかがわかりますね。
あんまり言うと炎上するので、このへんにしておきます。
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by sakanoueno-kumo | 2019-10-10 01:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)