天誅組の足跡を訪ねて。 その11 「櫻井寺(天誅組本陣跡)」
文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組隊士はいっせいに挙兵し、五條代官所を襲って代官の鈴木正信(源内)を殺害すると、ここ櫻井寺を本陣として五條新政府を号し、討幕の旗をあげました。
現在、櫻井寺の入口には、「天誅組本陣跡」と刻まれた石碑が建てられています。
明治100年を記念して建てられたもののようです。
彼ら天誅組が五條で旗揚げしたのは、攘夷を望まれる孝明天皇の大和行幸の先鋒となり、御親兵として戦うためでした。
ところが、これに震え上がったのは当の孝明天皇。
自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職の松平容保にSOSを求めます。
そうして起こったのが、京の尊皇攘夷派が一掃された「八月十八日の政変」でした。
彼らがここで旗揚げした翌日に京の政局は一変し、天皇の大和行幸の計画は頓挫します。
これにより天誅組は皇軍御先鋒の大義名分を失い、梯子を外されたかたちとなります。
つまり、天誅組は皇軍として旗揚げした翌日に「暴徒」となったんですね。
境内には、代官・鈴木源内を殺害した後に首を洗ったと伝えられる水盤があります。
さらに、本堂の下に置かれたこんなものを見つけました。
旧本堂の柱だそうです。
「天誅組 槍尻之傷跡」と書かれています。
追討軍との戦闘時の傷ということでしょうか?
確かに、言われてみればそのようにも見えます。
天誅組がここで立ち上げた五條新政府は、わずか3日間の命でしたが、このとき五條新政府は、この年の年貢を半減することを宣言したそうです。
高速道路無料化とか高校無償化など、財源を無視して民衆に耳あたりの良い公約を掲げて一時的に政権を担ったどこかの党と似ていますね。
結局は絵に描いた餅、政府と名乗るには稚拙な集団だったということでしょう。
そうか!平成の世間交代は、天誅組の変だったのか!!!
どうりで短命に終わったはずです。
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by sakanoueno-kumo | 2019-10-11 07:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(2)
天誅組とか十津川郷士とか、九州人にはあまりにも土地勘がなさ過ぎで、近畿地方のどっかその辺という認識・・・。
なかなか、遠いですねえ。
おっしゃるとおりで、権力を奪取したとしても、民衆の支持を得ないと長続きしないですからね。
天誅組の場合、善政を布いて民衆からも評判の良かった代官を、幕府の役人だというだけの理由で突然襲って殺したわけですから、五條の民衆からしてみれば、平和な山奥の町に突然やってきたテロリストでしかなかったわけで、相当甘いこと言わないと、民衆の支持を得ることはできなかったでしょうからね。
こんな稚拙なテロ軍団が、維新後、薩長政府のご都合で「義挙」とか「義士」とか言われ、位階が贈られて靖国合祀されているわけですから、おかしな話です。
五條市や十津川村なんかは、近畿といっても、わたしの感覚では他国です。
五條市は神戸から車で約2時間、十津川村なんて4時間近くかかります。
東京に行くほうが早いです(笑)。
近畿の最果てという感じでしょうか。