天誅組の足跡を訪ねて。 その12 「乾十郎宅跡・顕彰碑・墓所」
「その11」で紹介した櫻井寺の南側に、五條出身の天誅組隊士・乾十郎の住居がありました。
現在、その跡地には石碑が建てられています。

乾十郎は4歳にして孟子を諳んじるほどの秀才だったといい、同じく五條出身の森田節斎に儒学を、その弟の仁庵に医学を、そして京に出て梅田雲浜に国学を学びます。

大坂に出て町医を開業した後、再び五條に戻って医者をする傍ら、吉野川に放流する材木に課せられる材木税を不当として紀州藩に撤廃を談じ込み成功させたり、容認はされなかったものの、吉野川の水を大和平野に疎通させて灌漑設備を整えようと上書したりしています。

現在は櫻井寺の南の大通りより一筋南の細い路地に石碑が建ちますが、当時は、櫻井寺の門前に住居があったそうで、挙兵前は五條代官所に近いこの地で代官所の様子を探り、挙兵後は櫻井寺に本陣を布く手筈を整えたといいます。

近くには、乾十郎顕彰碑が建てられています。

「贈正五位乾十郎先生顕彰碑」と刻まれています。
乾は明治24年(1891年)に靖国に合祀され、明治31年(1898年)に正五位を贈られました。
天誅組隊士のほとんどが、明治に入って名誉回復となり、位階が贈られています。
でも、彼らのやったことは、所詮はテロリズム。
幕府の役人というだけで何の罪のない代官を殺害し、それを「義挙」と言っているわけですからおかしな話です。
殺された鈴木正信(源内)たちのことを思えば、釈然としないものがあります。
明治政府の贈った位階というのは、自分たちが作った新政府を正当化するための道具に過ぎなかったというのが、よくわかりますね。

顕彰碑裏面には、「獄中歌」と題して次の詩が刻まれています。
いましめの 縄は血汐に染まるとも あかき心は などかはるべき
いわゆる辞世の句ですね。
乾十郎の兄・乾竹次郎の孫である乾材三の揮毫で、碑は昭和12年(1939年)に建てられました。

顕彰碑の前の石碑には、坂本龍馬や勝海舟とも親交があったと書かれています。
これはあまり知られていませんが、いくつかの文献に出てくる話です。
文久3年6月2日(1863年7月17日)、土佐藩士で神戸海軍操練所の塾生だった廣井磐之助の仇討を龍馬が助けますが、このとき見物人のなかに乾がいて、「助勢の士一同凱歌を唱。山号谷応じ、凄々愴々」と、その模様を伝えています。
また、同月11日、龍馬は勝海舟の使いとして乾のもとを訪ねていますが、伝わるところによると、陸奥陽之助(宗光)が水戸藩士兜惣助らに狙われている乾を救助してくれるよう龍馬に頼み、龍馬は乾を助けたといいます。
五條代官所襲撃の2ヶ月前のこと。
せっかく龍馬に救ってもらった命を無駄に使っちゃいましたね。

五條市岡口一丁目には、乾十郎の墓があります。

司馬遼太郎の短編『五条陣屋』では、代官所の手代になり損ねて恨みを持っている狂人として描いています。
あるいは、多少そういう要素があったのかもしれません。

天誅組壊滅のあと、乾は大阪に逃亡して潜伏していましたが、やがて捕縛されて京の六角獄(別稿:幕末京都逍遥 その90 「六角獄舎跡」)に投獄されます。
そして元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)によって起きた大火災によって京都の町は火の海となり、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙が、判決が出ていない状態のまま独断で囚人37名の処刑を断行しました。
そのなかには、乾を含む天誅組隊士16名が含まれていました。
獄舎で斬首された乾らの遺体は、西の京刑場にまとめて埋められ、その後、幕末のドサクサのなか忘れ去られていましたが、それから13年後の明治10年(1877年)、化芥所(ごみ処理施設)となっていた西の京刑場跡から姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された乾らの遺骨であることがわかり、あらためて京都の竹林寺に移葬されました(別稿:幕末京都逍遥 その92 「竹林寺」)。

この墓がいつ建てられたものなのか、京都の竹林寺から分骨されたのか、そのへんの情報はわかりませんでした。
まあ、他の天誅組隊士たちも、複数の墓が存在する場合が多いですからね。
乾の墓は大阪市天王寺区の正念寺にもあるそうです。
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by sakanoueno-kumo | 2019-10-12 00:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(1)
なんと、ご子孫の方ですか。
読んでいただけて光栄です。
また、記事中では、ご先祖さまのことをテロリスト扱いして申し訳ございません。
ただ、わたしはどうしても、天誅組の行いを「義挙」と崇めることに違和感を覚えてなりません。
どうかご容赦ください。
ご実家には遺品もあるんですね。
歴史がぐっと信憑性を増しますね。
コメントありがとうございました。
















