天誅組の足跡を訪ねて。 その14 「森田節齋宅跡・顕彰碑」
五條は、幕末の思想家・森田節齋の出身地です。
森田節齋は頼山陽に学び、頼三樹三郎や梅田雲浜、宮部鼎造らと親しく交わり、その門下には吉田松陰や久坂玄瑞がいました。
そして、同じ五條出身で天誅組の隊士となった乾十郎も、森田節齋に学びました。

現在、市内の住宅地の一角に、「森田節齋宅跡」と刻まれた石碑があります。

説明板です。
サビサビで一部読めません。

石碑から500mほど北上したところには、森田節齋頌徳碑が建立されています。

文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組が五條の地で挙兵すると、京にいた節齋は中川宮朝彦親王へ上申するなどの援護運動をしたといいます。
その行動で幕府に目をつけられた節齋は、紀伊国に逃れて髪をおろし、愚庵と号して身を潜め、明治改元目前の慶応4年7月26日(1868年9月12日)、病でこの世を去ります。

一説には、天誅組が五條で挙兵したのは、尊皇攘夷思想の指導者だった節齋の出身地であったことも理由のひとつだったと言われます。

この頌徳碑は、明治42年(1909年)、勤皇の志士たちに多大な影響を与えた維新の功労者として節斎に従四位の位階が追贈され、それを記念して、義捐金を募って大正2年(1912年)に建てられたそうです。
「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2019-10-18 01:28 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)