天誅組の足跡を訪ねて。 その16 「賀名生皇居跡(堀家住宅)」
櫻井寺本陣から天辻本陣に南下するちょうど中間地点あたりに、賀名生(あのう)という山里があるのですが、かつてここは、南北朝時代の一時期、南朝の行宮所が置かれた場所です。
現在、その場所は賀名生の里歴史公園として観光用に公園整備されています。

延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山に潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。
そのとき、後醍醐天皇を手厚くもてなしたのが地元郷士の堀孫太郎信増という人物で、その後も、その縁で後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。

この賀名生の里に、櫻井寺本陣から天辻本陣に移る途中の天誅組の面々が立ち寄ったと伝えられます。

文久3年8月20日(1863年10月2日)に櫻井寺本陣から天辻本陣に移った天誅組は、その道中、かつて後醍醐天皇を手厚くもてなした堀孫太郎信増の子孫の邸に立ち寄ります。
地元出身の乾十郎らの手引きがあったのかもしれません。
現在、その堀家の屋敷が公園内に残っています。

このとき、堀家で後醍醐天皇の遺品を見た吉村寅太郎は、そこが戦火に巻き込まれないようにと、「皇居」と書いた扁額を冠木門に掲げました。
それが、これ。

墨の色がまったく色褪せてないやん!・・・と思ってしまいますが、実はこれはレプリカで、本物は隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されています。

資料館内は撮影禁止だったため実物の扁額の写真は撮れなかったのですが、博物館内で撮影OKだった観光マップの写真を見ると、写真左端になんとなく写りこんでいました。
これぐらいなら許していただけるでしょうか?

屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。
この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。

この日は日曜日だというのに、観光客はわたしひとりでした。
人里はなれた山里だし、天誅組とか南朝行宮とか、マニアックですからね。
ここは、以前の拙稿(太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」)でも紹介していますので、よければ一読ください。
「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2019-10-21 22:16 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)