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天誅組の足跡を訪ねて。 その17 「鳥ヶ峰古戦場」

「その15」で紹介した天ノ辻へ本陣を移した天誅組は、近隣の高取藩兵糧の提供を求めます。

この数日前、天誅組は五條代官所襲撃後すぐに高取藩に対して那須信吾らを恭順勧告の使者として送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきていました。

しかし、京の政局が変わるや否や、高取藩は態度を翻して兵糧の差し出しを拒否します。

そこで、天誅組は高取城の攻撃を決定。

文久3年8月25日(1863年10月7日)に進軍を開始しました。


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高取城は織豊時代から続く高取山山頂に築かれた堅牢な山城でしたが、江戸時代になると、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移されていました。

天誅組はここを襲撃すべく、中山忠光率いる本隊が高取に向かい、吉村寅太郎別働隊を率いて御所方面に進出して郡山藩に備えました。

この動きを察知した高取藩は、防備を固めます。


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8月26日、鳥ヶ峰で火蓋は切られました。

現在、その地には「鳥ヶ峰古戦場」と刻まれた石碑が建てられています。


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1000人ほどの天誅組に対して、2万5千石の小藩である高取藩の兵力は、わずか200人程だったといいます。

しかし、地の利を熟知していた高取藩兵は、ここ鳥ヶ峰の丘の上に大坂冬の陣で使用したと伝わる大砲「権現砲」四門を据えて、天誅組に向かって砲撃。

火力に劣る天誅組はたちまち大混乱に陥り、若き忠光にこれをまとめる力はなく、敗走して天ノ辻まで退却します。

その夜には、吉村寅太郎率いる別働隊が夜襲を試みますが、味方の誤射によって寅太郎が負傷し、結局なすところなく退却します。

やはり、結局は即席で集まった烏合の衆だったということですね。

この鳥ヶ峰の戦いは、司馬遼太郎の短編『おお、大砲』で描かれています。


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石碑の横には、戦いの様子が描かれた絵が紹介された説明看板があります。


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石碑の立つ高取の森の丘の上から南を見ると、高取城跡がある高取山が見渡せます。

この日は高取城跡にも足を運びました。

その登城記は別稿で紹介していますので、よければ一読ください。

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日本最大の山城、高取城登城記。



「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
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天誅組の足跡を訪ねて。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-22 21:33 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

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