天誅組の足跡を訪ねて。 その18 「鷲家口古戦場~出合橋」
高取城攻めで大敗を喫し、天ノ辻本陣まで退却した天誅組でしたが、そこで、中山忠光と吉村寅太郎らの意見が別れはじめます。
そこへ、幕府の命を受けた紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などによる総勢1万4000の討伐軍が進軍を開始し、さらに文久3年9月1日(1863年10月13日)には、追い打ちをかけるように朝廷からも天誅組追討の勅令が下されました。
つまり、天誅組は幕府、朝廷の両方から暴徒とみなされたわけです。
もはや孤立無援となった天誅組は、それでも必死の抵抗を見せますが、多勢に無勢はいかんともしがたく、また、もともと戦意の乏しかった十津川郷士たちが離反し、14日には吉村らが守っていた天ノ辻本陣が奪われ、19日、ついに進退窮まった中山は、天誅組の解散を命じました。
天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みますが、やがて重傷を負っていた吉村が一行から脱落し、24日、鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇し、激しい戦いとなります。
鷲家口の激戦地となった奈良県東吉野村には、その場所を示す石碑や看板が数多く建てられています。
村を流れる高見川に架かる出合橋です。
もちろん、当時は木の橋でしたが、ここを中山忠光率いる天誅組本体が進軍したと伝えられます。
橋の欄干には天誅組のイメージ画を刻んだ鋳物が埋め込まれています。
「維新のさきがけ天誅組」と書かれた幟も。
橋から高見川を見下ろすと、川遊びをする家族連れが楽しそうにはしゃいでいます。
かつての激戦地も、いまは長閑な山里です。
橋の少し北側には、「出合橋跡」と書かれた看板があります。
どうやら、当時の出合橋は今より少し北側にあったようです。
出合橋を渡って西側にある東吉野村役場の一角には、「天誅組史跡(福屋)彦根藩 舟橋七郎右衛門陣所跡」と記された銘板があります。
ここに、中山忠光らが攻め込んだと伝えられます。
鷲家口には他にもたくさんの激戦の跡が残されています。
次稿もその足跡を追います。
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by sakanoueno-kumo | 2019-10-23 21:02 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)