天誅組の足跡を訪ねて。 その20 「鷲家口古戦場~天保高殿・西田仁兵衛戦死の地」
「その19」で紹介した那須信吾戦死の地のすぐ近くの高見川沿いに、「天保高殿先生戦死之地・西田仁兵衛先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。
天保高殿は水戸藩脱藩浪士、西田仁兵衛は武蔵国出身の人物だったようですが、それ以上のことはよくわかりません。

石碑は高見川沿いの堤防の上にあります。

その横に建てられた説明板は、「その18」で紹介した出合橋跡を説明したもので、二人とは関係ありません。

両士に関しての説明板は、道路を挟んで向かい側に設置されていました。

説明板によると、これも「その18」で紹介した福屋の彦根陣所を一蹴した天誅組の本隊は、直ちに出合橋を渡って鷲家口集落に突入するも、そのとき、主将の中山忠光の側近にいた天保と西田の2名が、この付近で敵弾に散ったと記されています。
中山忠光の側近にいた二人ですから、決して軽い身分の人物ではなかったのでしょうね。
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by sakanoueno-kumo | 2019-10-30 23:04 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(2)