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いだてん~東京オリムピック噺~ 第42話「東京流れ者」 ~代々木ワシントンハイツ返還~

 昭和39年(1964年)の東京オリンピックメインスタジアムは昭和33年(1958年)にアジア大会が開催された国立霞ヶ丘陸上競技場に決まり、スタンドを増設するなどの改修工事が進められようとしていました。皇居北の丸に柔道競技場となる日本武道館の建設が決定したのも、ちょうどこの頃でした。その他の競技施設の建設や道路の整備など、着々と開発が進められ始めていた東京でしたが、そんななか、最も難航していたのが選手村の候補地でした。


e0158128_17574863.jpg 当初、選手村は埼玉県朝霞にあった米軍基地のキャンプ・ドレイク(現在の陸上自衛隊朝霞駐屯地)をアメリカから返還してもらい、そこに選手村を建設する計画でした。ところが、これに反発したのがまーちゃんこと田畑政治でした。理由はいたって明瞭、朝霞では都心にある各競技場までの距離が遠すぎるということ。そこで候補地として田畑が目をつけたのが、代々木のワシントンハイツでした。ワシントンハイツは明治神宮に隣接する92.4万平米の広大な敷地で、そこに在日米軍の兵舎をはじめ、米兵の家族住宅、学校、教会、劇場まである居留地で、いわば「日本の中のアメリカ」といった場所でした。戦前は日本陸軍の練兵場だったところで、昭和15年(1940年)の幻の東京オリンピックの際にも、施設建設地として候補にあがっていた場所でした。都心部でこれだけ広い面積を確保できる場所は他にはなく、メインスタジアムにも徒歩で行ける距離。これほど好条件の場所は他にない、というのが田畑の意見でした。


 もっとも、田畑に言われるまでもなく、ワシントンハイツが最良の場所であることぐらいは誰もがわかっていました。しかし、候補地にあがらなかったのは、アメリカが簡単に手放すはずがないと思い込んでいたからだったようです。ところが、まーちゃんは諦めなかったんですね。その根気が功を奏したのか、突如アメリカ側が軟化し、ワシントンハイツの返還を条件付きで了承します。その条件とは、移転費用(60億円とも80億円とも)はすべて日本政府が負担し、移転先も日本政府が用意するというものでした。この条件に難色を示す池田勇人首相を田畑は説得し(その説得の材料が、ドラマで描かれていたようにNHK放送局の建設とカラーテレビの普及による経済効果だったかどうかはわかりませんが)、昭和36年(1961年)10月、ワシントンハイツへの選手村建設が決定します。


 ドラマでは、平沢和重日米安全保障条約が日本国民の反感を買っていることを利用し、ワシントンハイツ返還のメリットを突きつけて交渉を進めましたが、実際、アメリカが返還に応じた背景には、前年に盛り上がった日米安保闘争があったと見て良さそうです。岸信介総理が新安保条約締結を機に、また日本を戦争に導いていくのではないかと、若者を中心に反政府感情が高ぶっていたこの時期。そんな機運のなか、日本のGHQ統治は昭和27年(1952年)にとっくに終わっているのに、未だ東京の中心部に高い塀で囲われた「日本の中のアメリカ」が存在することに、国民の反感は増長していました。アメリカとしては、できればその反米感情を鎮めたい。それには、ワシントンハイツ返還は格好の手段だったのでしょうね。やはり、オリンピックは政治とは切っても切り離せません。ともあれ、そのおかげで代々木が日本に戻ってきたのだから、結果オーライだったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、タクシー運転手の森西栄一「聖火リレーコース踏査隊」となった話、実話だそうですね。たまたま森西のタクシーに丹下健三亀倉雄策が乗り合わせ、そこで聖火リレーコース踏査隊の話を聞き、その役目を自分にやらせてくれとアピールしたというのも本当の話だそうです。てっきりドラマのオリジナルだと思って観ていました。世の中、面白い人がいるもんです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-11 20:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

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