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「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その1 <生野代官所跡>

先週まで、幕末に起きた「天誅組の変」ゆかりの地めぐりのシリーズを起稿してきましたが、同じ頃、但馬国でも同じような事件が起きました。

「生野の変」です。

「天誅組の変」は、尊王攘夷派の志士たちが大和国五条代官所を襲撃して占領し、倒幕の兵を挙げた事件でしたが、「生野の変」は、同じく尊攘派の志士たちが但馬国の生野代官所占拠した事件です。

現在、生野代官所の跡地には、事変を後世に伝える石碑が建てられています。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)に大和国五条で天誅組が挙兵すると、その過激な行動を危惧した公卿の三条実美は、暴発を制止すべく福岡脱藩浪士の平野國臣を五条に送ります。

しかし、その直後に京で八月十八日の政変が起こり、情勢は一変。

三条実美ら攘夷派公卿7人は長州藩士たちとともに京を追われます。

世にいう「七卿落ち」ですね。

天誅組の説得のために五条入りした平野國臣でしたが、天誅組首脳と意気投合してしまい、その直後に京の政変のことを知ると、巻き返しを図るべく大和国を去ります。

まさに、ミイラ取りがミイラになるってやつですね。

平野は天誅組に呼応すべく但馬国の志士・北垣晋太郎と連携し、幕府直轄領であった生野での挙兵を画策します。


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天誅組の総帥は公家の中山忠光を頂いていましたが、生野の挙兵にもそれなりの人物総帥に頂く必要があると考えた平野は、長州に赴き、周防三田尻に滞在していた七卿の一人、澤宣嘉を説得します。

そして奇兵隊を中心とした27名の志士たちを伴い、10月2日に三田尻を出航し、9日に飾磨港に上陸しますが、そこで、天誅組の壊滅の事実を知ります。

報に接した彼らは、挙兵の中止と決行の両論に分かれましたが、主戦論に押され、11日に生野に到着。

翌12日未明、彼らは生野代官所を無血占拠します。


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生野代官所跡にあるバカでかい石碑です。

皇紀2600年を記念して昭和15年(1940年)に建てられたもので、高さ5m、幅2.5m、厚さ60cmの花崗岩だそうです。

石碑には「生野義挙趾」と刻まれています。


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天誅組史跡の稿でも再三発言してきましたが、わたしは、この「義挙」という言葉がどうも気に食わない。

生野の挙兵では天誅組のように代官を殺してはいませんが、彼らがやったことは所詮はテロリズム

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。

皇国史観の戦前に建てられた石碑は仕方がないにしても、説明板や朝来市のホームページなどでも、「義挙」「維新の魁」などと紹介しているのは、どうかと思いますね。

薩長が自分たちの起こした政争を正当化するために作った虚構に、今なお踊らされているように思えてなりません。


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石碑裏面には、事変を伝える碑文が刻まれています。


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石碑の説明板です。


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「生野義挙碑」と刻まれた新しい石碑もあります。


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観光用の案内板も。


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代官所の説明板です。

生野代官所は、この近くの生野銀山経営を管理するために置かれた代官所で、古くは織田信長、豊臣秀吉の時代から重要視され、江戸時代250年に渡って幕府直轄領でした。

生野銀山については、以前の拙稿<2015夏休み但馬路紀行 その2「生野銀山」>で紹介しておりますので、よければ一読ください。


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話を歴史に戻して、生野代官所を占拠した彼らは、澤宣嘉の名で諭告文を発表して農兵を募りました。

農兵は続々と集まり、その数は即日2000人を越えたといいます。

しかし、結果はわずか4日間で壊滅してしまうんですね。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-20 17:25 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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