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「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その3 <山口護国神社(生野義挙志士殉難之地)>

「その2」のつづきです。

「その1」で紹介した生野代官所跡から6kmほど北上したところに鎮座する山口護国神社は、「生野の変」を起こした尊王攘夷派志士たちが自刃した場所と伝えられます。


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参道の入り口には、「生野義挙史跡」と刻まれた石碑が建てられています。

何度も言いますが、わたしは彼らの行動は「義挙」ではなく「暴挙」だと思っています。


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文久3年10月12日(1863年11月22日)に生野代官所を占拠した彼らは、総帥・澤宣嘉の名で諭告文を発表して農兵を募り、たちまち2000人以上の農兵が集まりました。

しかし、天誅組の変の直後とあって幕府側の動きは早く、報せを受けた豊岡藩、出石藩、姫路藩はただちに兵を動かし、翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動します。


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この諸藩の素早い動きに対して、浪士たちはまた解散か強硬かの両論に分かれましたが、平野國臣河上弥市らの強硬論に押され、いったん解散は立ち消えになります。

ところが、13日夜、肝心の総帥である澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出してしまいます。

元出石藩士の多田弥太郎、入江八千兵衛らから情勢の不利を説かれたからといいますが、生野本陣を去るにあたって、澤は机の上に和歌を一首残していったそうです。


頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にてありぬる


これを読んだ残党は、「ハァ~?」と声をあげたでしょうね。

尊攘派といっても、所詮、公卿は公卿です。

まあ、武士でも、鳥羽・伏見の戦いの真っ只中に江戸に逃げ帰った将軍もいましたが・・・。


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澤脱出の事実が知れ渡ると、もともと烏合の衆と農兵の集まりだった挙兵ですから、たちまち統制がとれなくなり、翌14日朝には、農兵たちが「騙された」と怒って一党を偽浪士と罵り、逆に攻撃し始めました。

こうなると、もはや万事休す

川上ら13人は妙見山麓のこの地に集まり、8人は切腹、残り5人も附近で討死しました。


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その説明板です。

ここでも「義挙」という言葉が使われています。

説明文に出てくる南八郎という名は、河上弥市の変名です。


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境内には、この地で落命した13名の慰霊碑が建てられています。


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中央の墓碑に刻まれた「殉節忠士之墓」は、明治の元老・西園寺公望の揮毫だそうです。

慶応4年(1868年)2月、西園寺公望が山陰道鎮撫総督として但馬入りしたときに揮亳し、建立されたものだそうです。


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左隣に建つ墓誌名の碑は、同じく参謀の折田年秀によるものだそうです。

右隣の石碑は、何が書いているのかよくわかりませんでした。


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こちらの石碑は、「正義十七士之神霊」と刻まれています。


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そして、その奥には、「正義十三士自盡之址」と刻まれた石碑と、苔生した巨岩があります。


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この地に集まった河上弥市(南八郎)以下13人は、この山伏岩「今月今日討死」

血書し、8人はこの場にて切腹、残り5人もこの付近で討死したと伝えられます。


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反対側から見た山伏岩です。

「南無阿弥陀佛」の文字が刻まれています。

彼ら13人の首は生野代官所に届けられ、打ち捨てられていた首なしの遺骸は、付近の住民によってこの岩の裏に埋められたそうです。

その後、他の場所で死んだ4人の首を加えた17人の首が、この岩の裏に埋められたそうです。


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こちらは、大正5年(1916年)に建てられた招魂碑です。


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この石碑は、河上弥市(南八郎)の辞世が刻まれた歌碑です。


奉献 議論より実を行へ なまけ武士 国の大事を余所に見る馬鹿 皇国草莽臣 南八郎


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こちらの石灯籠には、平野國臣の歌が刻まれています。


我たまは 但馬の国の神となり 大君思う人を助けん 


でも、平野はここには祀られていないんですけどね。


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この地で死んだ13人は、全員、長州藩の奇兵隊士でした。

奇兵隊の創設者である高杉晋作は、天誅組と生野の挙兵の失敗を知り、こう言って悼んだといいます。


「予、知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲に類す。然して、二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。」


天誅組の変も生野の変も、義挙ではなく暴挙だったと思いますが、国を思うピュアな精神は、偽りではなかったでしょう。


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長くなっちゃいましたが、もう少し「生野の変」シリーズにお付き合いください。

「その4」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-23 00:22 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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