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いだてん~東京オリムピック噺~ 第45話「火の鳥」 ~東京五輪音頭~

オリンピックの顔と顔 ソレトトント トトント 顔と顔


といえば、言わずと知れた『東京五輪音頭』ですが、当時をリアルタイムで知らない現在52歳のわたしにとっては、この歌イコール、当時、「国民的歌手」といわれた三波春夫というイメージでしかないのですが、実はこの歌、最初は三波だけではなかったそうですね。三波が「国民的歌手」と呼ばれるようになったのは、この歌とのちの大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』の2曲が大ヒットしたのちのことだそうで、この当時は、まだそこまでの存在ではなかったそうです。


 『東京五輪音頭』を作曲したのは、「古賀メロディー」と呼ばれる多くの名曲を世に送り出した昭和の名作曲家・古賀政男。当時の歌謡界ではナンバー1の作曲家への依頼は、当然の人選だったと言えるでしょう。ところが、当時、古賀政男はコロムビア・レコードの専属作曲家で、当時の歌謡界の規則では、古賀の作った歌はコロムビア専属の歌手しか歌えないことになっていたのですが、この曲に限っては、国民的祭典の歌ということで、古賀は「どこのレコード会社の歌手でも歌えるようにしてほしい」との意向を示し、コロムビアもこれを受け入れ、録音権を各レコード会社に開放しました。古賀にしてみれば、この機会に自身の歌をコロムビア以外の歌手に歌わせたいという思いがあったようです。


いだてん~東京オリムピック噺~ 第45話「火の鳥」 ~東京五輪音頭~_e0158128_14005076.jpg 各レコード会社に開放された『東京五輪音頭』は、必然的に競作となりました。ビクターは神楽坂浮子、つくば兄弟、そして当時、御三家の一人として人気を博していた橋幸夫を起用し、東芝はオリンピック大使にも選ばれていた人気アイドルの坂本九、ポリドールは大木伸夫・司富子、そして、キングは当時に人気実力ともに折り紙付きだった三橋美智也を起用します。本来であれば独占できたはずのコロンビアは、若手の注目株だった北島三郎と新人の畠山みどりによるデュエットで挑みました。そんななか、テイチクの三波春夫バージョンは、比較的後発だったようです。


 もっとも、古賀ははじめからこの曲を三橋美智也を想定で作ったそうです。古賀にしてみれば、他社の看板スターである三橋に自身の歌を歌ってもらう絶好のチャンスと捉えていたようですね。実際、オリンピック前年の昭和38年(1963年)のオリンピックデーに楽曲が発表された際も、三橋の歌が披露されました。そんなこともあって、発売前の下馬評では三橋バージョンのヒットが確実視されていたようです。ところが、いざ蓋を開けてみると、大ヒットしたのは三波春夫バージョンで、なぜか三橋バージョンはあまり振るわなかったんですね。


 三波春夫の一人勝ちになった理由については様々な分析があるようですが、一番はプロモーションの力の入れ具合にあったようです。ドラマでも描かれていましたが、三波が大トリを務めた昭和38年(1963年)12月31日のNHK紅白歌合戦では、毎年恒例のエンディング曲『蛍の光』の代わりに『東京五輪音頭』が歌われたそうです。現在まで長い紅白歌合戦の歴史のなかで、『蛍の光』以外の曲が歌われたのはこのときだけなんだとか。


あと、三波は競作歌手のなかで最年長で、唯一、戦争へ従軍してシベリアで捕虜となった経験があり、そのことから、戦後復興の象徴である東京オリンピックへの思い入れが人一倍強く、そういう強い気持ちが乗った歌だった、と、後年語っていたそうです。同じく戦後復興の象徴でこの6年後に行われた大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』も、8社のレコード会社が競作のなか三波バージョンが大ヒットしました。この2曲のヒットにより三波は「国民的歌手」と称されるようになり、晩年、三波はこの2曲を「生涯の宝物でございます」と語っていたそうです。


 ちなみに、令和2年(2020年)の東京オリンピックのテーマソングですが、当時の三波春夫のような国民的歌手という観点で言えば、桑田佳祐さんしかいないだろうと思っていましたが、やはり、民放共同企画のテーマソングは桑田さんが作られるそうですね。満場一致の人選だったとか。まあ、そうでしょう。もっとも、東京オリンピック招致決定の際に作られたという『東京VICTORYが、すでにテーマソングのような使われ方をしてきていましたが。


 ちなみに余談ですが、平成10年(1998年)の長野オリンピック閉会式では、サプライズで国民的コメディアン萩本欽一さんがMCをするという演出がありましたが、来年の東京オリンピックでは、わたしはこの役目を中居正広さんがやるんじゃないかと睨んでいます。中居さんはずっと務めていたTBSのオリンピックキャスターを降板したことが話題になっていましたが、実はこの大役があるから降りたんじゃないかと。さらに言えば、この大役が随分前から決まっていて、だから、あのときもジャニーズ事務所を辞めなかったんじゃないかと。深読みしすぎですかね?


 とまあ、話がそれちゃいましたが、今話は『東京五輪音頭』のお話でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-12-02 14:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

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