明治政府初の外交問題となった神戸事件。 その2 「滝善三郎正信碑」
「その1」の続きです。
神戸事件の起きた三宮神社から3kmほど南西にある能福寺に、神戸事件の責任を負って切腹した滝善三郎正信の顕彰碑があります。
ここ能福寺は、日本三大大仏の兵庫大仏や、平清盛廟がある寺院として知られています。
そのお寺の境内の一角にひっそりと建てられているのが、滝善三郎正信碑です。
慶応4年1月11日(1868年2月4日)に起きた神戸事件の責任を問われて切腹を申し付けられた滝は、2月9日夜、このすぐ近くにあった永福寺で、内外検証人の面前で行なわれました。
日本政府側からは伊藤博文、中島信行が立ち合い、列強諸国側は米英仏蘭伊普の士官、公使館書記7名が列席しました。
英国外交官アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』には、このときの様子が次のように記されています。
滝は仏壇の前の赤い毛氈の上に座ったが、きわめて平静で前方へ倒れ伏すのに都合の良い位置を選んだ。
白木の台に乗せられた短刀を受け取るや滝は、やや乱れた声ではあったが、「二月四日神戸で、逃げんとする外国人に対し不法にも発砲を命じた者はこの自分にほかならぬ、この罪によって、自分は切腹すると述べ、この場の皆様にそれを見届けてもらいたい」と述べ、できるだけ深く刺して右のわき腹までぐいと引いた。
また、同じく英国外交官アルジャーノン・ミットフォードも、このときの切腹の模様を詳細に記録しています。
善三郎は裃を帯あたりまで脱ぎ下げ、上半身を露にした。
そしてその袖を注意深くひざ膝の下へ入れて後ろへ倒れないようにした。武士は切腹のあとに前に倒れて死ぬものとされていたからである。
善三郎はしっかりとした手つきで前におかれた短刀を取り上げると、いとおしいかのように眺め、しばらくの間、考えを集中しているように見えた。
そして善三郎は、その短刀で左の腹下を深く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きをかえてやや上方へ切り上げた。
この凄まじい苦痛に満ちた動作のなか、彼は顔の筋ひとつも動かさなかった。
短刀を引き抜いた善三郎は前方に体を傾け、首を差し出した。
そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。
だが、声はなかった。
その瞬間、それまで善三郎そのそばにうずくまって事の次第をもらさず見つめていた介錯が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。
一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。
太刀の一撃で、たちまち胴体は切り離れた。
堂内寂として声なく、ただわれわれの目前にあるもはや生命を失った肉塊から、どくどくと流れ出る血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。
介錯は低く一礼し、あらかじめ用意された白紙で刀をぬぐい、切腹の座から引き下がった。血に塗られた短刀は証拠として、おごそかに持ち去られた。
政府の検視役の二人は席を立ち、外国人検視役のところへ近づき滝善三郎の処分が滞りなく遂行されたことを申し述べた。
儀式は終わり、我々は寺を後にした。
この当時は「切腹」と言っても短刀を腹に当てた時点で介錯が首を落とすとか、短刀に代わりに扇子を使う「扇腹」(おうぎばら)などが一般的だったのだがそうですが(幕末期は本来の作法通りも少なくはなかった)、ミットフォードによると、滝善三郎の切腹は古来よりの作法に則ったかたちだったことがわかります。
外国人の前で、日本人の侍スピリッツを見せつけたのかもしれません。
このミットフォードが本国に伝えた切腹の様子を、イギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が銅版画付きで報じたことにより、世界的にセンセーションを巻き起こし、「ハラキリ」という言葉が西洋でも広まることになります。
前稿で紹介したとおり、滝の行為は行列の前を横切った外国人を制止するためのもので、これは、当時の武士として当然の行為でした。
しかし、明治新政府政権は諸国列強に押し切られるかたちで、滝善三郎1人の命を代償として問題を解決させたわけです。
幕末、倒幕派のスローガンは「尊皇攘夷」でしたが、明治新政府はその公約である「攘夷」政策を、この事件の対処によって放棄したことになります。
その意味でも、神戸事件は歴史上大きな転換となった出来事といえるでしょうか。
その犠牲となった滝は浮かばれませんが、もし、この事件がなければ、滝善三郎正信という人物の名が後世に残ることはおそらくなかったでしょう。
そう思えば、滝は割り切れない思いはあるにせよ、武士の一分がたったといえるかもしれません。
辞世
きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ
滝の切腹から6日後、堺において土佐藩士がフランス水兵と衝突する堺事件が起きることになります。
次回、その堺事件を追います。
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by sakanoueno-kumo | 2019-12-12 01:30 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)