国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>
「その6」のつづきです。
今回は内堀の西側を南から北に向かって歩きます。
南側の内堀です。
彦根城の石垣の特徴的な見どころのひとつで、土手の上部に鉢巻石垣、土手の下部に腰巻石垣が築かれています。
向こうに見えるのは大手門に渡る木橋。
「その1」で紹介した南東の表御門に架かる橋から、南西の大手門までの間の内堀の内側に、この鉢巻石垣と腰巻石垣が築かれています。
なぜこのような石垣を築いたかは、はっきりした理由はわからないそうです。
大手門橋です。
この橋を渡ると大手門です。
橋から見た北側の石垣。
高石垣の下に犬走りがあります。
橋を渡ると枡形虎口になっています。
櫓台跡と見られるでっかい石垣台があります。
たぶん、ここに枡形の一ノ門の櫓があったのでしょう。
大手門といえば、通常は城の正面玄関にあたりますが、彦根城にはもうひとつ、「その1」で紹介した表御門があります。
どちらが正面玄関かというと、もともとは大坂城の方角にあたる南西に大手門が築かれたそうですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、江戸城の方角にあたる表御門が実質の正面玄関になったのだとか。
でも、裏を返していえば、それまでは豊臣家に敬意を払っていたということになります。
本当でしょうか?
ここが二ノ門跡です。
横を見上げると、彦根城の特徴のひとつ、登り石垣があります。
このまま山上には登らず、内堀に沿って北に向かいます。
このあたりに米蔵があったそうです。
内堀に出る水門です。
内堀北西部まで来ました。
ここにも登り石垣があります。
この登り石垣を上ると、「その5」で紹介した西の丸三重櫓の下の堀切に続いています。
北側の土塁に上って内堀を見下ろします。
遠く向こうに見える高石垣は、最北端の山崎曲輪です。
行ってみましょう。
山崎曲輪に入る手前に山崎御門跡があります。
北側の内堀に面した門ですが、現在は橋も架かっておらず、冠木門も塞がれて使用されていません。
そして山崎曲輪です。
山崎曲輪は彦根城最北端に構えられた郭で、往時は琵琶湖の内湖に突き出していたそうです。
ここに家老の木俣土佐守守勝の屋敷があったといわれます。
木俣守勝は、井伊直政が佐和山城に入る前に居城としていた高崎城で城代家老を勤めていた人物でした。
元々は徳川家康の直臣で、一時は出奔して明智光秀に支えたときもありました。
本能寺の変のあとで織田信長の領地だった甲斐を占領した家康は、信長によって滅ぼされた武田家の家臣団を集めて井伊家に託します。
この時、守勝を武田家臣団の大将とするように命じた家康が、守勝を直政に与力として預けました。
つまり、家老といえども、元は直政とおなじ家康の家臣で、元同僚だったわけです。
直政の死後、家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、彦根城の築城を取り仕切ったのは守勝でした。
その意味では、彦根城の実質の築城主と言えるかもしれません。
曲輪内には建物のあった名残と見られる石垣の遺構がたくさん残っています。
西隅には三重櫓が築かれていましたが、明治のはじめに解体されたそうです。
彦根城には三階建ての建物が3棟あり、そのひとつは天守、もうひとつは西の丸三重櫓、そしてあとひとつがここ山崎曲輪にあった櫓だそうです。
その場所に木俣守勝の屋敷があったわけですから、やはり、よほどの特別待遇だったことがわかりますね。
三重櫓台の上に上って、北側の内堀を見下ろします。
こちらは、西側の内堀。
向こうに見えるのは、山崎御門の外側にある長橋口跡。
東の佐和口、南の京橋口、西の舟町口とともに彦根城の4つの門のひとつですが、現在は使われていません。
石垣が一部崩れているようです。
内堀の外側から見た山崎曲輪の高石垣です。
出隅は算木積みになっています。
向こうに天守が見えます。
さて、本稿もだいぶ長くなっちゃいました。
「その8」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2020-01-17 01:27 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)