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天下布武の象徴、安土城攻城記。 その6 <伝黒金門跡~伝長谷川秀一邸址>

「その5」の続きです。

「伝織田信忠邸址」を過ぎると、再び石段が始まります。


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縄張り図によると、この石段を登ると、いよいよ安土城中枢部に入るようです。


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何か櫓台跡のような立派な石垣が見えます。


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櫓台石垣まで登ってきました。

ここは安土城中枢部への主要な入口、黒金門跡です。

もっとも、この石垣は後世(おそらくは摠見寺)に積み直されたもののようです。


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周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石が大きいことに気が付きます。

平成5年(1993年)の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていたことが分かったそうで、多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていたそうです。

その結果から、ここ黒金門は巨大な櫓門と多聞櫓で形成された城門だったことがわかったそうです。


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門は直角に折れ曲がる「食い違い虎口」を形成しています。


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「黒金門址」と刻まれた古い石碑が。


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左折してすぐに右折します。


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説明板です。


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黒金門を抜けると、織田信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。


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門を過ぎてすぐに、目の前に巨大な高石垣がそびえます。

この石垣の上が伝二ノ丸

これまで見てきた安土城の石垣は、ほとんどが昭和になってから積み直されたものですが、ここ伝二ノ丸下の石垣と天守台石垣は、当時のまま、つまり、積み直されていない天正の石垣なんだそうです。

往時は、この上に土塀もしくは多門櫓、隅櫓などが乗っかっていたと考えられています。

ちなみに、この写真を撮影している場所は、二の丸下帯郭と呼ばれています。


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ここを右に行くと本丸に向かうのですが、左側(北側)にも石段があり、その先にも曲輪があるようなので、向かってみることに。


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ここがその曲輪です。

麓にあった縄張り図では「伝長谷川竹秀一邸跡」となっています。

長谷川秀一織田信長の小姓で、信長の男色相手として深く寵愛されたと伝わり、若い頃は「長谷川竹」という呼び名で呼ばれていました。

なので、二ノ丸下段にあたるこの場所に住んでいたとしても不思議ではありませんが、これも、他の邸跡と同じく史料に基づいたものではありません。

長谷川は、本能寺の変が起きたとき、徳川家康堺見物の案内役を務めていました。


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伝長谷川竹秀一邸跡に、4基の五輪塔が整然と並んでいます。

長谷川氏の供養塔かと思って近づいてみると・・・。


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立て札に「織田信雄公四代供養塔」とあります。

織田信雄は信長の次男で、無能だったと言われる人物。

信雄公四代というのは、その子孫の4代ということでしょうね。


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信雄は本能寺の変後に後継者になるべく安土城に入りますが、失火で安土城を焼くなど、失点を重ねます。

このことについてルイス・フロイスは、著書『日本史』のなかでふれ、信雄をこき下ろしています。

その後、信雄は豊臣政権下徳川幕府の下で、改易されては復活してまた改易といった波乱万丈のなかを生き抜き、最後は宇陀松山藩に5万石を与えられます。

その後、宇陀松山藩主の織田家は高長、長頼、信武と4代続きますが、5代目の信休のときに御家騒動で丹波国柏原藩に移封となり、その際、信雄から信武まで4代の遺骸を総見寺の寺域であった安土城跡のこの地に改葬したそうです。

安土城を焼いた張本人(異説あり)が、安土城跡に眠る。

皮肉なものですね。

「その7」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-06 01:31 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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