天下布武の象徴、安土城攻城記。 その7 <仏足石~本丸跡>
「その6」の続きです。
伝長谷川秀一邸址をあとにして、二の丸下帯郭を本丸方向に向かって進みます。

伝二ノ丸石垣の向こうに、石段の虎口が見えます。

門の名称などは紹介されていませんでしたが、石垣の形状などから見て、ここにも立派な櫓門があったのでしょうね。

石段を登る途中の踊り場に、何やら巨石と説明の駒札があります。
駒札には「仏足石」と書かれています。

説明書きによると、この仏足石は、大手道などに見られる石仏と同様に石材として集められて石垣に使われた転用石で、昭和の初期登山道整備のときに崩れた石垣のなかから発見され、ここに展示されたそうです。

仏足石をあとにして、石段を登ります。

石段を登りきると、左が伝二ノ丸、右に行けば伝本丸という空間に出ます。
ここは、二の丸と本丸の間に存在する本丸西溜まりと呼ばれる場所です。

そこには「護國駄都塔」と刻まれた古い石碑があります。
裏には「天保十三年建立」と刻まれていましたが、何のための石碑なのかは、説明書き等がなかったのでわかりません。
その石碑の上に見える門のようなものは、伝二ノ丸跡にある織田信長公御廟所の門です。

織田信長の廟所のある二ノ丸は後回しにして、先に本丸に向かいます。

伝本丸跡です。

通称「千畳敷」と呼ばれる安土城本丸は、東西約50m、南北約34mの規模をもつ敷地で、三方を天主台、本丸、帯郭、三の丸の各石垣に囲まれています。
ここには、織田信長が奥御殿として日常生活の場にしていた「南殿」があったと伝えられます。

説明板によると、昭和16年(1941年)と平成11年(1999年)の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤状に配置された119個の建物礎石が発見されたそうです。
7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には、焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。
4~6寸(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。

礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かったそうです。

『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に、「皇居の間」が設けられていたことを記しています。
信長は正親町天皇(第106代天皇)の行幸を計画していたといいますが、結局、その計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないかと想像されます。

写真は伝本丸東虎口。
現在は封鎖されています。

この石垣は伝三ノ丸石垣。
縄張り図によると、本丸の東側にあるこの石垣の上が三ノ丸となっており、江雲寺御殿があったとされています。
本丸より三ノ丸が高いっておかしくねーか?

というのも、最初に「伝本丸跡」と述べたように、ここが本丸というのはあくまで「伝」であり、確証はありません。
現在の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸などの呼称は、安土城廃城後100年以上ほど経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたものであって、信憑性はありません。
これまで見てきた「伝羽柴秀吉邸跡」や「伝前田利家邸跡」などと同じですね。
本丸より二ノ丸や三ノ丸のほうが高いという構造や、二ノ丸の豊臣秀吉が信長の廟所を設けていることなどからみて、貞享古図の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸は誤りで、実際には、これら3つの郭をすべてまとめて本丸(本城)としていたのではないかと考えられています。
「その8」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2020-02-07 00:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)